ジャズフォーエバー・メロディーズ スイング・ダンス!!
フォーエバー・メロディーズ スイング・ダンス!!
商品名 フォーエバー・メロディーズ スイング・ダンス!!
発売日 2011年09月21日
商品コード MIRA-4108
JANコード 451117352864
定価(税込) 2,200円
収録時間 62分03秒

グレン・ミラーやレイ・チャールズ、またCMでも使用されたルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」など、誰もが知るジャズ・ジャイアント達の未だに色あせない名曲の数々を収録した“フォーエヴァー・メロディーズ”シリーズの待望の第2弾! 今回も貴重なオリジナル音源ばかりを収録した永久保存盤!


歌詞・解説付


収録内容


  1. Cheek To Cheek / Billy Eckstine & Sarah Vaughan

    1935年、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース主演のミュージカル映画『トップ・ハット』のために、アー ヴィング・バーリンが作曲したナンバー。「頬よせて」という邦題でも親しまれている。「Heaven, I'm in Heaven」という歌い出しの部分はあまりにも有名で、アステア自身による録音のほか、多くのジャズ・アーティストによって愛唱されている。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    チーク・トゥ・チーク (頰よせて)/ビリー・エクスタイン & サラ・ヴォーン

  2. A String Of Pearls / Glenn Miller

    グレン・ミラー楽団のアレンジャーだったジェリー・グレイが、ミラー楽団のために書いたオリジナル曲で、1942年に録音され、同団を代表するヒット曲のひとつとなった。映画『グレン・ミラー物語』の中では、グレン・ミラーが恋人ヘレンのために模造品の真珠の耳飾りをプレゼントし、ミュージシャンとして大成した後、この曲の演奏と共に本物の真珠の耳飾りを贈るという場面が 出てくる。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    アストリング・オブ・パールズ (真珠の首飾り)/グレン・ミラー

  3. Take The "A" Train / Duke Elington

    デューク・エリントン楽団のピアニスト/アレンジャーだったビリー・ストレイホーンが1939年に作曲したナンバー。「A列車で行こう」という邦題にある「A列車」とは、ニューヨークの地下鉄のA路線のこと。原曲の歌詞の中には、高級住宅街のシュガーヒルから、A路線の地下鉄に乗ってハーレムに向かえば、本物のジャズが楽しめるという箇所が出てくる。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    テイク・ジ・エー・トレイン (A列車で行こう)/デューク・エリントン

  4. Hit The Road Jack *ライブ音源 / Ray Charles

    1960年にシンガーソングライターのパーシー・メイフィールドが作詞作曲したナンバーだが、レイ・チャールズが1961年にリリース後、2週連続でビルボード誌No.1 ヒットを記録した。男女の別れの修羅場の様子を歌ったものだが、「no more, no more, no more...」の繰り返しが絶妙な効果を発揮している。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    ヒット・ザ・ロード・ジャック (旅立てジャック)/ レイ・チャールズ

  5. Stardust / Glenn Miller

    インディアナの法科生だったホーギー・カーマイケルが1929年に作曲したインストゥルメンタル・ナンバーで、地元のインディアナで録音された後、1929年にミッチェ ル・パリッシュが詞を書き下ろした。史上最も録音された ジャズ・ナンバーのひとつとされており、その数は1500とも1800とも言われている。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    スターダスト/グレン・ミラー

  6. 'S Wonderful / Doris Day

    1927年に初演されたブロードウェイミュージカル『ファニー・フェイス』のために、ジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウィンの作曲作詞コンビが書き下ろしたナンバー。1957年、フレッド・アステア主演で『ファニー・フェイス』が映画化された時にも歌われた他、ガーシュウィンの音楽を全編に用いた映画「巴里のアメリカ人』でも用いられている。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    スワンダフル/ドリス・デイ

  7. Johnson Rag / Glenn Miller

    原曲は1917年にガイ・ホールとヘンリー・クラインコーフが作曲した16小節のインストゥルメンタル曲。これをグレン・ミラーがスウィング・ヴァージョンで録音し、ジャック・ローレンスが新たに詞をつけた。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    ジョンソンラグ/グレン・ミラー

  8. Begin The Beguine / Glenn Miller

    コール・ポーターの代表作のひとつで、1935年、ポーターが滞在していたパリ・リッツホテルのバーのピアノに座りながら一気に書き上げたという伝説が残っている。同年10月に初演されたブロードウェイミュージカル『ジュビリー』の中で初めて歌われ、1940年の映画「踊るニュウ・ヨーク」の中でフレッド・アステアが歌い、広く親しまれるようになった。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    ビギン・ザ・ビギン / グレン・ミラー

  9. Chattanooga Choo Choo / Glenn Miller

    マック・ゴードンとハリー・ウォーレンがシンシナティ・サザン鉄道を走るバーミンガム特別列車に乗車中、書いたナンバーと言われている。1941年にグレン・ミラー楽団が録音、同年製作された映画『銀嶺セレナーデ』にカメオ出演したミラー楽団がダンスシーンで演奏したこともあり、1,200万枚とも言われる売上を記録。アメリカ音楽史上初のゴードルドディスクに認定された。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    チャタヌーガチューチュー/グレン・ミラー

  10. It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)/ Duke Elington

    「スウィングしなけりゃ意味ないね」という邦題で知られる、スウィング全盛期そのものを象徴するデューク・エリントンのナンバー。1931年、エリントンがシカゴのレストラン「リンカーン・タヴァーン」に出演した際、出番の合間に作曲したと言われている。歌詞はアーヴィング・ミルズ。1932年に初録音され、エリントン楽団の専属歌手だったアイヴィー・アンダーソンが創唱した。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    イット・ドント・ミーン・ア・シング(イフ・イット・エイント・ガット・ザット・スウィング) (スウィングしなけりゃ意味ないね)/デューク・エリントン

  11. Pennsylvania 6-5000 / Glenn Miller

    「ペンシルヴァニア 6-5000」とは、ニューヨークのホテル・ペンシルヴァニアで現在も使われている電話番号のことで、このホテルに出演していたグレン・ミラー楽団が、1940年に録音したナンバーのタイトルにそのまま転用した。作曲はジェリー・グレイとカール・シグマン。映画『グレン・ミラー物語』では史実と異なり、この番号はミラーのアパートの電話番号という設定で登場する。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    ペンシルヴァニア・6-5000 / グレン・ミラー

  12. I've Got A Gal In Kalamazoo / Glenn Miller

    「カラマズーの娘」あるいは単に「カラマズー」という邦題でも知られている。マーク・ゴードンとハリー・ウォーレン1942年に書いたナンバーで、グレン・ミラーが出演した映画『オーケストラの妻たち』の主題歌として演奏され、アカデミー最優秀歌曲賞にノミネートされた。ミラー楽団の録音は発売時、8週連続でビルボード誌No.1を記録している。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    アイヴ・ガット・ア・ギャル・イン・カラマズー(カラマズーの娘)/ グレン・ミラー

  13. Anvil Chorus / Glenn Miller

    原曲はヴェルディ作曲の歌劇『イル・トロヴァトーレ』第2幕で歌われるジプシーの合唱。オペラの中で金床 (アンヴィル)を叩きながら歌われることから、「アンヴィル・コーラス」の名でも知られている。既存の名曲をあたかもオリジナル作品であるかのように巧みにアレンジし、演奏してしまうグレン・ミラーのすぐれた例のひとつ。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    アンヴィル・コーラス/グレン・ミラー

  14. Ring Dem Bells / Lionel Hampton

    原曲はデューク・エリントンが出演・楽曲提供した1930年の映画『Check and Double Check』の挿入曲。この映画をきっかけにエリントンの名が全米に広まったという経緯もあり、エリントンはその後も頻繁に演奏していた。ここに聴かれる演奏は1938年にライオネル・ハンプトン楽団が録音したもので、ヴィブラフォンとヴォーカルはハンプトン自身。サックスのジョニー・ホッジスやトランペットのクーティ・ウィリアムズなど、エリントン楽団のメンバーが 演奏に加わって賑やかなセッションを聴かせている。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    リング・デム・ベルズ/ライオネル・ハンプトン

  15. Flying Home / Glenn Miller

    1939年、ライオネル・ハンプトンが人生初の飛行機搭乗を前に、不安を解消するために吹いた口笛が基になって生まれたという逸話が残っている。1939年、ハンプトンがベニー・グッドマン六重奏団で初録音。その後、1942年のハンプトン楽団の録音でヒット曲となった。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    フライング・ホーム/グレン・ミラー

  16. Danny Boy / Glenn Miller

    原曲は「ロンドンデリーの歌」として知られるアイルランド民謡で、19世紀中頃に初めて楽譜の形で記譜された後、いくつかの詞が付けられて歌われるようになった。「ダニー・ボーイ」という曲名は、1910年に弁護士のフレデリック・ウェザリーが書いた詞を、この曲の旋律に合わせて歌うヴァージョンに付けられたものである。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    ダニー・ボーイ/グレン・ミラー

  17. I'm In The Mood For Swing / Benny Carter

    サックス奏者ベニー・カーターの代表作のひとつ。ここに聴かれる演奏は1938年、カーターが自身の楽団で録音したもので、スウィング全盛時代を代表するトランペット奏者のひとり、ハリー・ジェイムスのソロが演奏の終わり近くに登場する。1987年、ディジー・ガレスピーを共演に迎えたカーターは半世紀ぶりにこの曲を再録音し、大きな話題となった。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    アイム・イン・ザ・ムード・フォー・スウィング / ベニー・カーター

  18. Singin' In The Rain / Roy Fox & His Orchestra

    もともとはアーサー・フリードとナシオ・ハーブ・ブラウンが1929年に書いたナンバー。1929年に初演された『ハリウッド・ミュージック・ボックス・レヴュー』の中で初めて歌われ、同年製作されたミュージカル映画『ハリウッド・レヴィユー』に使用されてヒットを記録したが、一般には1952年に製作されたミュージカル映画『雨に唄えば』の主題歌として知られている。ジーン・ケリーが傘をさしながら、この曲を歌う場面はあまりにも有名だ。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    シンギン・イン・ザ・レイン (雨に唄えば)/ロイ・フォックス & ヒズ・オーケストラ

  19. La Vie En Rose / Louis Armstrong

    20世紀フランス最大の女性歌手エディット・ピアフが作詞を手がけ、ピエール・ルイギーが作曲者としてクレジットされているが、実際にはピアフが曲も書いたと言われている。彼女の持ち歌の中でも最も有名なナンバーのひとつで、イヴ・モンタンとピアフの恋愛から生まれたという。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    ラヴィアンローズ (ばら色の人生)/ルイ・アームストロング

  20. What A Wonderful World / Louis Armstrong

    ジョージ・デヴィッド・ワイスとボブ・シール(ジョージ・ダグラス名義)が1968年に書いたナンバーで、当時の世相を反映し、一種の反戦歌として書かれている。もともとはトニー・ベネットのために書かれたが、ベネットの録音が実現しなかったため、ルイ・アームストロングのシングルとして発売された。発売当初、アメリカでは全くヒットしなかったが、イギリスでNo.1ヒットを記録。現在はアームストロングの代表曲のひとつとして親しまれている。

    【解説】前島秀国:2011/08/08

    ホワット・ア・ワンダフル・ワールド (この素晴らしき世界)/ルイ・アームストロング

スウィングジャズについて

前島秀国

ごく大雑把にアメリカのジャズ・ヒストリーを 紐解いてみると、1900年初頭に始まったジャズは大体30年から40年の周期で大きな転換点を迎えていることがわかる。最初の大きな転換点は、1940年代のオールドジャズからモダンジャズへの移行期。もうひとつの大きな転換点は、1970年代に一大ブームを巻き起こしたフュージョンの登場である。その最初の転換点が訪れる直前、オールドジャズをひとつの完成形に導いたのが、スウィングジャズであると言えるだろう。

ニューオリンズで生まれたジャズは、もともと地元のマーチングバンドの演奏家たちが思い思いに楽器を持ち寄って始めた即興演奏から発生し、最初のうちは演奏人数も4~5人、演奏場所も地元の酒場や売春宿や賭博場が中心だった。その後、ジャズの人気が高まり、ニューヨークをはじめとする大都市の高級クラブやダンスホール、あるいは映画館やラジオといった不特定多数の聴衆を相手にした音楽に変化してくると、より多人数での演奏が求められるようになった。言うまでもなく、そうした場所は会場の空間が広いため、音楽の音量を上げなければならないが、当時は現在のようなPAシステムは存在していなかったので、手っ取り早く楽器の数を増やして演奏するのが最良の手段であった。そこで問題となってくるのが、ジャズ本来の持ち味である即興的な音楽である。

クラシック音楽についても言えるが、あるアンサンブルが指揮者なしに演奏できるのは大体10人くらいが限界で、それ以上になると個々のメンバーの音を聴き取ることが難しくなるため、アンサンブルを合わせることが非常に困難になってくる。ましてや、ジャズの場合はマーチングバンドから派生したという経緯もあり、トランペットやサックスといった音量の大きい吹奏楽器が中心だから、なおさら互いの音が聴き取りにくくなる。20人近いメンバーが集まって即興演奏をしようものなら、音楽はたちまち混乱に陥ってしまう。

そうした時、指揮者(リーダー)を立てるのはもちろんだが、クラシックのようにあらかじめメンバーに譜面を配ってそれぞれの役割を決めておけば、音楽がスムーズに進むようになる。それを体系的におこなったのが、スウィングジャズで重要な役割を果たしたアレンジャー(編曲者)である。

1920年代、幸いなことにジャズには、クラシックの音楽理論に精通したアレンジャーやピアニストがいた。その中の代表的存在が、フレッチャー・ヘンダーソンとデューク・エリントンである。彼らはクラシックの和声法(コード進行)や管弦楽法(オーケストレーション)に精通し、20人近いミュージシャンをどのように采配したら効果的に音楽を生み出せるか、自ら楽団を結成してさまざまな実験を重ねていった。その結果、いわゆるビッグバンドと呼ばれる大編成のバンドを中心に発展していったのがスウィングジャズである。

さらにベニー・グッドマンやグレン・ミラーといった白人アーティストたちがジャズで活躍するようになったことも、スウィングジャズの発展に大きな影響を与えた。フレッチャー・ヘンダーソンがアレンジャーとして参加したベニー・グッドマン楽団、および“グレン・ミラー・サウンド”として知られる独特のアレンジで人気を博したグレン・ミラー楽団の登場で、スウィングジャズは1930~40年代に黄金期を迎えたのである。


収録アーティスト

ビリー・エクスタイン

“ミスターB"のニックネームで親しまれた、アメリカ・ジャズ史上に燦然と輝くバラード歌手。ハワード大学中に出場したアマチュア・ヴォーカリスト・コンテストで優勝し、本格的に音楽活動を開始。1939年、アール・ハインズ楽団の専属歌手として契約、瞬く間に人気を獲得したのち、1944年に自身の楽団を結成。ビバップ以後のモダン・ジャズ期にも多くのアーティストと共演、絶大な影響を与えた。


デューク・エリントン

デューク(公爵)のニックネームの通り、アメリカ・ジャズ史上最も尊敬されたピアニスト/コンポーザー/アレンジャー。幼少時からクラシックの音楽理論を学び、1916年にピアニストとしてデビュー。ニューヨークのコットンクラブを中心に活躍したエリントン楽団はいわゆるビッグバンドスタイルのひとつの雛形となった。「スウィングしなけりゃ意味ないね」「A列車で行こう」「ソフィスケーテッド・レディ」など、ヒット曲の多くが現在もスタンダードナンバーとして親しまれている。


ライオネル・ハンプトン

ジャズにおけるヴィブラフォンの位置づけを確固たるものにした打楽器奏者。もともとドラムを演奏していたが、 ルイ・アームストロングのセッションでヴィブラフォンを初めて演奏し、1936年ベニー・グッドマン楽団にヴィブラフォニストとして参加。1940年に自身の楽団を結成。ハンプトン楽団からはディジー・ガレスピー、チャールズ・ミンガス、ダイナ・ワシントン、クインシー・ジョーンズ、ウェス・モンゴメリーなど、多くの大物アーティストを輩出した。


ルイ・アームストロング

“サッチモ”のニックネームで親しまれた不世出のエンタテイナー/歌手/トランペット奏者。ニューオリンズの極貧家庭に生まれるが、コルネット奏者として人気を博し、キング・オリヴァー楽団やフレッチャー・ヘンダーソン楽団に参加。他の追随を許さぬ高度なトランペット奏法と、独特のスキャット唱法で全米随一のカリスマとなった。「ばら色の人生」「この素晴らしき世界」「ハロー・ドーリー」「すべては愛のために (「女王陛下の007」挿入歌)など多くのヒット曲を生み出し、映画俳優としても「上流社会」「五つの銅貨」「ハロー・ドーリー」などで活躍した。

サラ・ヴォーン

エラ・フィッツジェラルドと並ぶ、ジャズ・ヴォーカルの女王。高校を中退して音楽活動に専念し、ニューヨーク・アポロ劇場のアマチュアコンテストで入賞し、同劇場と契約。1943年、アール・ハインズ楽団にピアニストとして参加するが、ビリー・エクスタインの呼びかけに応じ、エクスタイン楽団の結成に参加。1945年にソロ歌手としてデビューし、モダン・ジャズ・ヴォーカルの草分け的存在となった。


レイ・チャールズ

R&B、ロック、ポップスにも多大なる影響を与えたソウル・ミュージックの大御所歌手/ピアニスト。幼い頃に緑内障で視力を失うが、17歳でシアトルに移ってバンド活動を開始、後の盟友クインシー・ジョーンズと出会う。1959年の「ホワッド・アイ・セイ」がミリオンヒットを記録したほか、「わが心のジョージア」「愛さずにはいられない」などヒット曲多数。2006年、自身の伝記映画「Ray/レイ」の完成直前に肝臓ガンで亡くなった。


ベニー・カーター

20世紀アメリカ・ジャズの生き証人というべきサックス奏者。当初はデューク・エリントン楽団のバッバー・マイレイに憧れてトランペットを吹いていたが、その後サックスに転向した。フレッチャー・ヘンダーソン楽団、BBCダンスオーケストラのアレンジャーを経て、1938年、自身の楽団を結成。1943年にミュージカル映画「ストーミー・ウェザー」の音楽を担当し、以後は「巴里のアメリカ人」「ナバロンの要塞」など、ハリウッド映画のアレンジも手がけた。1970年代からはプリンストン大学やハーヴァード大学などで教鞭を執り、ジャズ理論の教育にも大きな足跡を残している。

グレン・ミラー

ベニー・グッドマンと共にスウィングジャズを代表する巨人。コロラド大学中退後、トロンボーン奏者として音楽活動を開始し、ベニー・グッドマンらと共演を重ねる。1937年にグレン・ミラー楽団を結成し、「ムーンライト・セレナーデ」をヒットさせた。その後、アメリカ空軍バンドのリーダーとして活躍し、1944年に飛行機事故死した。ジェームズ・スチュアート主演で半生を映画化した「グレン・ミラー物語」でも有名。


ドリス・デイ

1950年代のアメリカン・ゴールデン・エイジを代表する歌手・女優。18歳でレス・ブラウン楽団の専属歌手となり、「センチメンタル・ジャーニー」をヒットさせる。1948年に映画 女優としてデビューし、「二人でお茶を」「カラミティ・ジェーン」「情欲の悪魔」「知りすぎていた男」などのヒット作に出演。「知りすぎていた男」の主題歌「ケ・セラ・セラ」はアカデミー最優秀歌曲賞を受賞し、彼女の名を不動のものとした。


ロイ・フォックス

11歳でコルネットプレイヤーとしてデビュー、ハリウッドを中心とするアメリカ西海岸で演奏活動を続けた後、19歳で自身のバンドを結成。フロリダ、ニューヨーク、ハリウッドを拠点に活動した後、1930年に渡英し、BBC放送とデッカレーベルの録音で人気を得る。その後はイギリスとオーストラリアを中心に活躍、1952年以後は音楽マネージメント業に転身した。

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