ジャズルイアームストロング ベスト・オブ・ミスター・ジャズ
ルイアームストロング ベスト・オブ・ミスター・ジャズ
商品名 ルイアームストロング ベスト・オブ・ミスター・ジャズ
発売日 2023年10月18日
商品コード MIUM-7116
JANコード 4571117356183
定価(税込) 2,200円
収録時間 72分09秒

「明るい表通りで」「この素晴らしき世界」ほかミスター・ジャズと呼ばれたルイ・アームストロングの珠玉の名曲集。


歌詞・解説付

*MONO


収録内容


  1. 明るい表通りで * / ルイ・アームストロング, サイ・オリヴァーズ・オーケストラ

    NHKの朝ドラ『カムカムエヴリバディ』でおなじみになった曲ですね。1930年にドロシー・フィールズ(詞)とジミー・マクヒュー(曲)のコンビが作った曲で、通りの日陰側じゃなくて日なた側を歩くと、 一文無しでも気分はロックフェラー、という意味の、大恐慌時代の世相を反映した歌です。サッチモはこの曲を3度スタジオで録音していますが、これはその3度目、1956年にサイ・オリヴァーのオーケストラと共に録音したものです。

    【解説】村井康司

    On The Sunny Side Of The Street

  2. ハロー・ドーリー! / ルイ・アームストロング

    1964年5月に、ビートルズの「キャント・バイ・ミー・ラヴ」を蹴落として全米ヒットチャート1位に輝いた、サッチモ最大のヒット曲です。 64年1月から始まったブロードウェイ・ミュージカル「ハロー・ドーリー!」主題歌で、作詞作曲はジェリー・ハーマン。 69年に映画化され、サッチモは特別出演してバーブラ・ストライサンドとデュエットでこの歌を歌いました。

    【解説】村井康司

    Hello, Dolly!

  3. アイ・スティル・ゲット・ジェラス / ルイ・アームストロング

    1947年のブロードウェイ・ミュージカル「ハイ・ボタン・シューズ」のために、サミー・カーン(詞)とジュール・スタイン(曲)が書いた曲です。 64年に発売されたアルバム『ハロー・ドーリー!』に収録されています。

    【解説】村井康司

    I Still Get Jealous

  4. この素晴らしき世界 / ルイ・アームストロング・オーケストラ & コーラス

    1967年、ABC レコードに移籍したサッチモのシングル盤用として、レコーディング・ディレクターのボブ・シール(ペンネームはジョージ・ダグラス)が、ジョージ・デヴィッド・ワイスと共作した曲。 「ハロー・ドーリー!」のような明るい曲を期待していたABCレコードの社長がこの曲を気に入らず、プロモーションをしなかったせいで、発売当時アメリカではほとんど売れませんでした。 しかしイギリスではヒットチャート1位になり、サッチモが亡くなった後の88年、映画『グッド・モーニング,ベトナム』の主題歌となってアメリカでもヒット、今ではおなじみのスタンダード曲として多くの人に歌われています。

    【解説】村井康司

    What A Wonderful World

  5. アイヴ・ガット・ア・ポケットフル・オブ・ドリームズ * / ルイ・アームストロング

    ビング・クロスビー主演の1938年の映画『Sing You Sinners』のためにジョニー・バークとジェイムス・モナコが作った曲で、クロスビーのヴァージョンがヒットし、サッチモは38年にいち早くカヴァーしました。 ここではレコーディング用の8人編成のバンド(トランペット2本、トロンボーン、クラリネット、ピアノ、ギター、ベース、ドラムス)を従えて歌とトランペットを聴かせています。

    【解説】村井康司

    I've Got A Pocketful Of Dreams

  6. 君微笑めば * / ルイ・アームストロング, サイ・オリヴァーズ・オーケストラ

    1928年に、ラリー・シェイ、マーク・フィッシャー、ジョー・グッドウィンが共作した曲で、同年にシーガー・エリスが歌ってヒットしました。 サッチモは29年に初めてこの曲を歌い、以後32年、56年にも録音しました。 ここに収録したものは、56年にサイ・オリヴァー編曲指揮のオーケストラと共に録音したヴァージョンで、84年の映画『コットンクラブ』(フランシス・フォード・コッポラ監督)ではこのヴァージョンが使用されました。

    【解説】村井康司

    When You’re Smiling

  7. セ・シ・ボン * / ルイ・アームストロング & ヒズ・オーケストラ

    1947年、フランスの作曲家アンリ・ベティが、作詞家アンドレ・オルネズと作ったシャンソンです。ベティはイヴ・モンタンにこの曲を歌うことを勧めましたが、モンタンは当初は自分に合わない曲だと考えて歌いませんでした。 サッチモは48年、ニースで他の歌手が歌うこの曲を聴いてすっかり気に入り、ジェリー・シーレンが書いた英語詞で50年に録音、それが世界的大ヒットになって、モンタンもこの曲を歌うようになったのでした。

    【解説】村井康司

    C'est si bon

  8. キャバレー / ルイ・アームストロング & オールスターズ

    1966年のミュージカル『キャバレー』のために、フレッド・エブ(詞)とジョン・カンダー(曲)が書いた曲です。サッチモのヴァージョンは1967年に録音され、アルバム『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』に収録されました。 ちなみに『キャバレー』は72年に映画化され、その中でライザ・ミネリが歌ったヴァージョンが大ヒットしました。

    【解説】村井康司

    Cabaret

  9. バラ色の人生 * / ルイ・アームストロング, サイ・オリヴァーズ・オーケストラ

    1945年にエディット・ピアフが作詞、ルイギが作曲したフランスの曲。1947年にピアフが歌ったレコードが発売され、アメリカでも100万枚のセールスを記録しました。 英語詞はマック・デヴィッドが書き、50年にトニー・マーティン、ビング・クロスビーなどがカヴァー、サッチモも50年にサイ・オリヴァーのオーケストラと録音して、ヒットチャート28位まで上昇しました。 なお、「セ・シ・ボン」と「バラ色の人生」のピアノは、1920年代にサッチモと数々の名演を遺した名ピアニスト、アール・ハインズです。

    【解説】村井康司

    La vie en rose

  10. 浮気はやめた * / ルイ・アームストロング & ヒズ・オーケストラ

    ピアニストで歌手のファッツ・ウォーラーが1929年に作った曲です。作詞はアンディ・ラザフで、ミュージカル『コニーズ・ホットチョコレート』の挿入歌。29年のうちに多くのカヴァーが録音され、サッチモも29年にこの曲を最初に録音しています。 ここに収録したものは、1938年に再録音したヴァージョンで、「アイヴ・ガット・ア・ポケットフル・オブ・ドリームズ」と同じ8人編成のバンドとの共演です。

    【解説】村井康司

    Ain't Misbehavin'

  11. メモリーズ・オブ・ユー * / ルイ・アームストロング, サイ・オリヴァー

    ジャズ草創期から活躍していた名ピアニスト、ユービー・ブレイクが作曲し、アンディ・ラザフが歌詞を書いた1930年の曲。 サッチモは30年にライオネル・ハンプトンのヴィブラフォンをフィーチュアして録音しましたが、このCDのヴァージョンは、1956年12月に録音されたもの。 サイ・オリヴァー編曲指揮の11人編成のバンドとの演奏です。

    【解説】村井康司

    Memories Of You

  12. シッティン・イン・ザ・サン * / ルイ・アームストロング, ジャック・プリース・オーケストラ

    アメリカを代表するソングライターの一人、アーヴィング・バーリンが映画『ホワイト・クリスマス』のために書いた曲ですが、映画では使われませんでした。 「日差しの中に座ってお金を数える/夏の風に吹かれて/マニー(お金)はハニー(はちみつ)よりスイートだ」というおもしろい歌詞を持つ曲です。 サッチモは1953年に、オールスターズのメンバーたちを含むジャック・プリース指揮のオーケストラと共に録音しています。

    【解説】村井康司

    Sittin' In The Sun

  13. ザット・オールド・フィーリング / ルイ・アームストロング, オスカー・ピーターソン

    1937年にサミー・フェイン(曲)とルー・ブラウン(詞)が書いた曲です。1957年のこの録音でサッチモは、モダン・ジャズ・ピアノの第一人者、オスカー・ピーターソンと共演しています。 メンバーは、ピーターソン(ピアノ)、ハーブ・エリス(ギター)、レイ・ブラウン(ベース)、ルイ・ベルソン(ドラムス)。 モダン・ジャズ世代とサッチモの共演はあまりないのですが、これは見事なコラボレーションだと言えます。

    【解説】村井康司

    That Old Feeling

  14. ゴーン・フィッシン * / ルイ・アームストロング, ビング・クロスビー

    ニック・ケリーとチャールズ・ケリーの兄弟コンビ(ニックが兄)が1950年に書いた曲。 ビング・クロスビーは51年、自分のラジオ・ショウにサッチモを招いて、二人の楽しいやりとりを中心としてこの曲を放送しました。 それを数カ月後にレコードとして発売したのがこの音源です。

    【解説】村井康司

    Gone Fishin'

  15. 誰も奪えぬこの思い * / ルイ・アームストロング, エラ・フィッツジェラルド

    アイラ(詞)とジョージ(曲)のガーシュイン兄弟が、1937年のフレッド・アステア主演の映画『踊らん哉(Shall We Dance)』のために作った曲。 サッチモはエラ・フィッツジェラルドとのデュエット・アルバム『エラ・アンド・ルイ』(1956年)でこの曲を採り上げました。バックの演奏は、オスカー・ピーターソン、レイ・ブラウン、ハーブ・エリス、そしてバディ・リッチ(ドラムス)です。

    【解説】村井康司

    They Can't Take That Away From Me

  16. ブルーベリー・ヒル * / ルイ・アームストロング, ゴードン・ジェンキンス・オーケストラ & コーラス

    ヴィンセント・ローズ(曲)とラリー・ストック、アル・ルイス(詞)によって1940年に書かれた曲で、同年にグレン・ミラー・オーケストラでヒットしました。 サッチモのこのヴァージョンは1949年にゴードン・ジェンキンズ編曲指揮のオーケストラおよびコーラスと共に録音したもので、ヒットチャート29位まで上昇し、以後サッチモの代表的レパートリーの一つになりました。 ちなみに、最も有名なこの曲のヴァージョンは、1956年に発売された、ロックンロール歌手ファッツ・ドミノのものです。

    【解説】村井康司

    Blueberry Hill

  17. ドリーム・ア・リトル・ドリーム・オブ・ミー / ルイ・アームストロング & オールスターズ

    ガス・カーン(詞)とファビアン・アンドレ、ウィルバー・シュワント(曲)によって1931年に作られた曲。サッチモは1950年にエラ・フィッツジェラルドとのデュエットでこの曲を録音していますが、ここに収録したものは1968年7月にルイ・アームストロング・オールスターズで録音したヴァージョン。 アルバム『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』に収録されています。同年4月に発売されたフォーク・ロック・グループ、ママス&パパスのアルバムにこの曲が入っていたので、もしかしたらそれを意識しての選曲かもしれません。

    【解説】村井康司

    Dream A Little Dream Of Me

  18. ザ・ジプシー * / ルイ・アームストロング, ザ・コマンダーズ

    イギリスのソングライター、ビル・リードが1945年に作った曲。翌年、インクスポッツが歌ってアメリカでヒットしました。 サッチモは53年10月に、トゥーツ・カマラータが率いるビッグバンド「コマンダーズ」と共にこの曲を録音しました。

    【解説】村井康司

    The Gypsy

  19. 我が心のジョージア * / ルイ・アームストロング

    ホーギー・カーマイケルが1930年に作った曲で、彼のルームメイトだったスチュアート・ゴレルが歌詞を書きました。 カーマイケル自身の歌とピアノで同年にレコーディングされ、のちにミルドレッド・ベイリーなど多数の歌手によって歌われ、アメリカン・スタンダードの仲間入りをしました。 サッチモのこのヴァージョンは、1956年12月に、サイ・オリヴァー編曲指揮のバンドと共に録音したものです。ちなみにこの曲は1960年にレイ・チャールズが歌って大ヒット、レイのヴァージョンは79年にジョージア州の州歌に認定されました。

    【解説】村井康司

    Georgia On My Mind

  20. ザット・ラッキー・オールド・サン * / ルイ・アームストロング, ゴードン・ジェンキンス・オーケストラ & コーラス

    ビーズリー・スミス(曲)、ヘイヴン・ギレスピー(詞)による1949年の曲。この年、フランキー・レイン、ヴォーン・モンロー、フランク・シナトラなどが録音し、どれもヒットチャートに昇りました。 サッチモのこのヴァージョンも49年に録音され、ヒットチャート24位まで上昇しました。編曲と指揮はゴードン・ジェンキンスです。

    【解説】村井康司

    That Lucky Old Sun

  21. ハロー・ブラザー / ルイ・アームストロング & オールスターズ

    〈この素晴らしき世界〉を作った、ボブ・シールとジョージ・デヴィッド・ワイスによる曲です。 1968年のアルバム『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』に収録されています。

    【解説】村井康司

    Hello Brother

  22. 聖者の行進 * / ルイ・アームストロング

    最後を飾るのは、サッチモの代名詞とも言うべき「聖者の行進」です。作者不明の黒人霊歌で、サッチモは1938年に初めて録音、以後ライヴで必ずと言っていいほど頻繁に演奏されるようになりました。 ここに収録したヴァージョンは、1955年1月21日、ロサンゼルスの「クレッセンド・クラブ」でのライヴ録音です。華やかなフィナーレをお楽しみください!

    【解説】村井康司

    When The Saints Go Marching In


ジャズが生んだ最初の、そして最大のスター、ルイ・アームストロング

村井康司(ジャズ評論家)

 もしルイ・アームストロングがいなかったら、ジャズはまったく違うタイプの音楽になっていたのではないでしょうか。 ルイの独創的でスリリングなトランペットのアドリブと、だみ声を活かした自由奔放な歌は、それ以降のほとんどのジャズ・ミュージシャンのお手本となりました。 そしてルイは、演奏と歌だけでなくユーモラスでフレンドリーなキャラクターによっても万人に愛され、世界中の人々をハッピーにさせるスターになったのです。 ルイ・アームストロングはジャズと共に育ち、ジャズの楽しさを世界に伝えた伝道師だった、とも言えるでしょう。 ここでは、「ジャズが生んだ最初の、そして最大のスター」ルイ・アームストロングの生涯を、駆け足でたどってみることにします。

 1901年8月4日、ジャズが生まれた町、ルイジアナ州ニューオリンズの下町で、一人の黒人の男の子が産声をあげました。 名前はルイ・アームストロング。ちょうどこの町でジャズが盛んになり始めた頃のことです。 ちなみにルイは生前「1900年7月4日生まれ」と周囲に語っていたのですが、親が「アメリカ独立記念日生まれの方が景気がいい」と思ってそう言っていたのではないでしょうか。 本人は最後までそれを信じていたようですが、研究家の調査により、近年では「1901年8月4日生まれ」が定説となっています。
 彼が育った界隈は、「バトル・フィールド(戦場)」と呼ばれていた治安の悪い一帯だったそうです。 お調子者のところがあったルイは、12歳のときにお祭りの騒ぎに浮かれて路上で父親の持っていたピストルを撃ち、少年院に収容されてしまいます。 そこでルイはコルネットという楽器に出会い、たちまちのうちにその楽器のとりこになったのでした。
 そしてルイは、コルネット吹きとしてニューオリンズでだんだん有名になっていきます。 当時ニューオリンズで最も人気のあったコルネット奏者キング・オリヴァーに可愛がられたルイは、1918年にシカゴに移住したオリヴァーに誘われて22年にシカゴに引っ越し、たちまちのうちに師匠を超える存在になりました。 24年にはニューヨークの一流バンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に呼ばれて1年ほど参加し、いかにも大都会らしい「お上品」なサウンドを特徴としていたヘンダーソン楽団を、いきなりホットで乗りのいい演奏のバンドに変身させてしまいました。
 ルイは25年にヘンダーソン楽団を退団してシカゴに戻ります。そして25年から29年までの間に、彼が「ホット・ファイヴ」「ホット・セヴン」という2つの録音専用バンドで吹き込んだ演奏によって、ルイ・アームストロングは「ジャズ」という音楽を変革してしまったのです。 28年にルイがアール・ハインズ(ピアノ)などと吹き込んだ〈ウェスト・エンド・ブルース〉は、その中でも最高傑作だと言えますが、ジャズ研究家で作曲家のガンサー・シュラーは、その意義についてこんなことを述べています。 「ルイ・アームストロングは〈ウェスト・エンド・ブルース〉の導入部において壮大な滝の流れのような楽句を吹きまくった。 このときかれはその後の数十年間のジャズのスタイルの全体の方向を規定した。」(『初期のジャズ』湯川新・訳)
 この「ジャズのスタイルの全体の方向」って、一体何なのでしょうか。それはおそらく「徹底的に個性を発揮して、自分だけにしかできない演奏をすること」なのだと思います。 たとえばゴッホやピカソの絵が、一目見ただけで「これはゴッホだ」「これはピカソだ」と分かるように、ルイの演奏や歌はちょっと聴いただけで「これはルイ・アームストロングだ」とわかりますよね。優れた芸術に必須の「個性」を、ルイはジャズの世界で最初に全開にした人だったのです。
 しかし、ルイ自身には「芸術を演奏する」というつもりはこれっぽっちもなかったに違いない、と私には思えるのです。 このあたりの機微について、日本を代表するジャズ評論家の油井正一氏は「彼(ルイ)の考えにしたがえば『ジャズは芸術ではなく、大衆演芸の一種』なのである。 にもかかわらず、『芸術』といわれるジャズをつくった当の男がルイ・アームストロングなのだ。 この矛盾にみえる論理を理解しないとジャズはあなたのものにならないのである」(『ジャズの歴史物語』)と述べています。 まさにその通り。「芸術」でありつつ「大衆演芸」でもある、という多層性が、ジャズという音楽の大きな特徴なのです。

 そして、ルイは「ジャズ・ヴォーカル」のあり方も決定づけてしまいました。 私は狭義のジャズ・ヴォーカルを「ジャズ・バンドをバックにして歌い、メロディを自分なりに変え(フェイクと言います)、その場でアドリブのメロディを歌う」ものだ、と定義づけています。 大急ぎで追加しますと、ジャズっぽいリズム感(スウィングするリズム)を持ち、クラシック的な発声とは違う、その人ならではの個性的な「声」があることも、ジャズ・ヴォーカルの必要条件なのだと思います。 これらの条件をすべて満たす歌を歌った最初の歌手は誰か? という質問に答えることは、おそらく誰にもできないでしょう。 しかし、この要素をすべて満たし、その歌唱が大きな衝撃を世界に与えた最初の歌手は誰か、という設問には自信を持って答えることができます。はい、ルイ・アームストロングです。
 ルイが身をもって示した「ジャズの歌は美声でなくてもいい、個性がすべて」「ジャズの歌は即興が命だ」「ジャズの歌はスウィングしなくては駄目だ」という教えは、その後すべてのジャズ・ヴォーカリストの基本的姿勢になった、と言えるでしょう。 そしてルイの歌は、彼のコルネットやトランペットの演奏とまったく同じ、気持ちいいスウィング感とブルースを感じさせる深いフィーリングにあふれています。

 さて、1930年代になると、ルイはヨーロッパに演奏旅行に出かけて、アメリカが生んだ素晴らしい音楽、ジャズの魅力を世界に向けて発信するようになります。 「サッチモ」というおなじみのニックネームも、イギリスで生まれたそうです。 口が大きいことが特徴だったルイは、若いころから「ディッパー・マウス(ひしゃくみたいな口)」とか「サッチェル・マウス(がま口のような口)」と呼ばれていたのですが、イギリスの雑誌記者が「サッチェル・マウス」を「サッチモ」と発音したのがきっかけでした。 本人もその呼び名がすっかり気に入り、以来ルイは「サッチモ」のあだ名で親しまれるようになりました。
 ジャズの曲にこだわらず、ラテン音楽やフランスのシャンソンなど、世界のさまざまな国の曲をどんどん歌い、演奏するようになったのも30年代以降です。 ルイの故郷ニューオリンズには、フランス語を話す人たちもたくさんいましたし、カリブ海の島々やメキシコからやってきたスペイン語を話す住民もいました。 世界の多様な文化、多様な音楽がひしめいているニューオリンズで生まれ育ったルイにとって、キューバやフランスの曲を採り上げることは、ごく自然なふるまいだったのでしょう。 もちろん、ジャズという音楽そのものが、ニューオリンズという国際雑居都市で生まれた「混血音楽」なのは言うまでもありません。

 1930年代後半以降、ルイは映画にもよく出演するようになりました。ビング・クロスビーと共演した『黄金の雨』(36年)、ビリー・ホリデイと共演した『ニューオリンズ』(47年)、ベニー・グッドマン、トミー・ドーシー、ライオネル・ハンプトンなども出演した『ヒット・パレード』(48年)、ビング・ク ロスビーとフランク・シナトラが主役をつとめた『上流社会』(56年)など、ルイは多数の映画に多くは本人役で登場し、明るくて気さくなキャラクターで映画の世界でも人気者になったのです。
 1946年、それまで持っていたビッグバンドを解散したルイは、トランペット、クラリネット、トロンボーンの3本の管楽器を中心とした「ルイ・アームストロング・オールスターズ」を率いて活動を始めます。 この編成は、彼のルーツであるニューオリンズ・ジャズの基本形と言うべきもの。1949年にはジャズ・ミュージシャンとしては初めて「タイム」誌の表紙を飾ったルイは、オールスターズと共に世界を精力的にまわり、「サッチモ大使(アンバサダー・サッチ)」と呼ばれるようにもなりました。ちなみにルイの初来日は1953年(昭和28年)で、その後63年、64年と、通算3回来日しています。

 1964年、ルイのシングル盤「ハロー・ドーリー!」が驚異的な大ヒットとなりました。 ビルボード誌5月9日号のヒットチャートで、この曲はビートルズの「キャント・バイ・ミー・ラヴ」を蹴落として1位に躍り出たのです。 64年はビートルズがアメリカで大ブレイクを果たした年で、「ハロー・ドーリー!」の前にはビートルズの「抱きしめたい」「シー・ラブズ・ユー」「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が、14週にわたって1位を独占していました。 「ハロー・ドーリー!」は、ビルボード誌が選定する「1964年のヒット曲」ランキングで3位になり、ルイは「ヒットチャート1位になった最年長者」に認定されました。 「ハロー・ドーリー!」の大ヒットでますます忙しくなったサッチモは、長年のオーバーワークのせいか、心臓に問題を抱えていました。 1967年の「この素晴らしき世界」がイギリスのヒットチャートで1位に輝き、その後も無理を押してコンサートやテレビ出演を続けていたルイは、1971年7月6日、心臓疾患のためにニューヨークの自宅で亡くなりました。

 「この素晴らしき世界」が再び脚光を浴びたのは、ルイの死後17年が経過した1988年のことでした。 87年12月に公開されたロビン・ウィリアムズ主演の映画『グッドモーニング,ベトナム』の主題歌として使われたことで注目され、全米ヒットチャート32位まで上昇したのです。 今ではこの曲はスタンダード・ナンバーとして実に多くの歌手が採り上げていて、もしかしたらルイ・アームストロングの曲の中で最も有名なのかもしれません。
 日本では、2021年11月から翌年4月にかけて放映されたNHK の朝の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」の中で、ルイが歌う「明るい表通りで」が、番組全体を象徴する曲として使われました。 深津絵里演じるヒロインの名前が「るい」で、彼女のあだ名が「サッチモちゃん」なのですから、全国のルイ・アームストロング・ファンはひっくり返って喜びました。
 ルイ・アームストロングが生まれてから120年以上が経ち、亡くなってからも50年以上の年月が過ぎ去りました。しかし驚くべきことに、彼が遺した音楽は現在でも新鮮な輝きを放ち、聴き手をハッピーにさせてくれます。
 最後に、ルイが青春時代を振り返った自伝『サッチモ ニュー・オルリーンズの青春』から、ルイが若いころにどんな音楽をやりたかったのか、を語っている部分を紹介します。

「私のやりたいこと、それはジャズからワルツまで、あらゆる種類の音楽をやることだったのだ。」(鈴木道子・訳)。

あらゆる種類の音楽を心底楽しんで、そして「サッチモ色」の個性を全開にして歌い、演奏した偉大な音楽家、ルイ・アームストロングに乾杯!

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