海外アーティストボニーM/ベスト・ヒッツ~怪僧ラスプーチン
ボニーM/ベスト・ヒッツ~怪僧ラスプーチン
商品名 ボニーM/ベスト・ヒッツ~怪僧ラスプーチン
発売日 2022年07月06日
商品コード DYCP-4082
JANコード 4560427470047
定価(税込) 1,980円
収録時間 76分30秒

70年代に一世を風靡した「怪僧ラスプーチン」が再び降臨!
懐かしのヒットを全曲網羅、これでアナタもレッツ・ダンス!

2021年にはTikTokで「怪僧ラスプーチン」が世界的にブレイクして、再認識された70年代ディスコ・グループ。ヨーロッパ・ディスコの中心地西ドイツで誕生し「怪僧ラスプーチン」 の世界的大ヒットで彼らに続けとアラベスク、ジンギスカンがその後に結成された。
サウンド的にはシャープなリズムと親しみやすいメロディとアレンジに特徴があり、#6は日本のテレビCM(HONDAフリード)でも使われるたくらいにノリとセンスがいい。#1~3は特に有名で、#8は盆踊りの定番曲で当時は運動会でも使われたノリノリ・ソング。


解説(吉岡正晴音楽ジャーナリスト、DJ
ソウル・ミュージックの情報を発信しているウェッブ「ソウル・サーチン」、同名イヴェント運営。1973年から六本木のソウル・ディスコ「エンバシー」などでフリーランスのDJとして活動。ディスコ、ブラック・ミュージック全般に詳しい。1975年以降執筆したライナーノーツは1300枚以上。ラジオ・テレビ番組出演、構成選曲、雑誌・新聞などに寄稿。翻訳本に『レイ・チャールズ 物語』、『マーヴィン・ゲイ物語 引き裂かれたソウル』 (デイヴィッド・リッツ著)、『マイケル・ジャクソン全記録』など。自著「ソウル・サーチンR&Bの心を求めて』など。毎月第3水曜新宿カブキラウンジでソウル音楽業界のゲストを迎えてのトーク・イヴェント 「ソウル・サーチン・ラウンジ」を開催中。毎週木曜日夜20時からJFN各局で生放送されている『AOR・ソウル・トゥ・ソウル』出演中。最新情報は、ツイッター、 https://twitter.com/soulsearcher216 あるいは @soulsearcher216で発信中。
)・歌詞・対訳付


試聴できます


JASRAC許諾第S2011253706

収録内容


  1. 怪僧ラスプーチン

    1978年8月西ドイツ(=当時・現ドイツ)等でリリースされた通算8枚目のシングル。「バ ビロンの河」に続いて発売され、ドイツ、オー ストラリア、オーストリアなどで1位、イギリス、フランス、スイスなどでも2位を記録。ロシア帝政末期の怪僧ラスプーチンのことを描いた、プロデューサー、フランク・ファリアンらの作品。日本でもディスコを中心に大ヒット。昨年(2021年)動画SNSサイト、TikTok(ティックトック)などでもヒット。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  2. サニー

    1976年11月、西ドイツほかヨーロッパ各国で発売された通算3枚目のシングル。ドイ ツ、フランス、ベルギー、オーストリア、オランダ、韓国などで1位を記録。この曲は元々1966年ポップなソウル・シンガー、ボビー・へブが全米R&Bチャートで3位、ポップ・チャートで2位を獲得したもののカヴァー。ケネディ暗殺(1963年11月22日)に衝撃を受けてボビー本人が書いたもの。またサニーはボビーが慕っていた兄のこと。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  3. バビロンの河

    1978年4月、西ドイツ他ヨーロッパ各国で発売された7枚目のシングル。ヨーロッパ各国ほぼすべてでナンバーワンを記録、ボニーMの最大のヒット。アメリカでも同年6月からヒットし、ポップ・チャートで30位を記録、アメ リカでも最大のヒットになった。歌詞は、聖書のバビロンの河から取られている。これを含む3枚目のアルバム『ナイトフライト・トゥ・ヴィーナス』は、ボニーMのキャリアの中で最大のヒットになった。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  4. 浮気はしないで

    1977年5月発売のボニーMの2枚目のアルバム『ラヴ・フォー・セール』の収録曲。同年発売の4枚目のシングル「マ・ベーカー」のB面に収められた。この頃の典型的な“ミュンヘン・ディスコ・サウンド”に仕上がっている。同アルバムは、コール・ポーターの題名曲をディスコ風にアレンジした作品やロック・グループ、CCRの「雨をみたかい」などもミュンヘン・ディスコ・サウンドにしてカヴァーしている。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  5. ダディ・クール

    1976年10月発売の2枚目のシングル盤。ドイツ、オーストラリア、フランス、ノルウェー、スイス、スウェーデンなどで1位。デビュー・シングル「ベイビー・ドゥ・ユー・ウォナ・バンプ」も少し話題になったが、これが実質的に初ヒットになり、ボニーMの存在がヨーロッパ、アメリカ、日本などで知られるようになった。エフェクトをかけたリード・ヴォーカルは実はグループの創始者となったプロデューサー、フランク・ファリアン。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  6. ガッタ・ゴー・ホーム

    1979年6月発売の14枚目のシングル盤。イントロはミュンヘンから登場したディスコ・クイーン、ドナ・サマーの「アイ・フィール・ラヴ」を思わせるが、なんとこれは1973年のドイツのグループ、ナイトトレインの「Hallo Bimmelbahn」という曲を下敷きにして作った楽曲だということを音楽評論家の村岡裕司さんから教わった。(感謝)ドイツ、オーストラリアで1位、オランダ、スイスなどで2位を記録。イギリスではシルヴァー・ディスクに輝いた。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  7. マ・ベーカー

    1977年5月発売の4枚目のシングル盤。アルバム『ラヴ・フォー・セール』からの2枚目のシングルとしてリリースされ、ドイツではシングル3曲連続で1位を記録。他にオーストラリア、フランス、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、スイスなどで1位、イギリスでは2位が最高、そのとき1位だったのはドナ・サマーの「アイ・フィール・ラヴ」でそれを破れなかった。ただし全米では96位と振るわなかった。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  8. バハマ・ママ

    1979年12月発売の15枚目のシングル「アイム・ボーン・アゲイン」の両A面扱い曲。「バハマ・ママ」は彼ららしいディスコ曲で日本では後に盆踊りなどで使われた。一方、チャート的には、リズ・ミッチェルがリードを取る彼らにとっては珍しいバラード曲「アイム」がスイス、ドイツ、オーストラリア、オランダなどでトップ10入りを果たした。アルバムは4枚目『オーシャンズ・オブ・ファンタジー』に収録された。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  9. メリーズ・ボーイ・チャイルド / オー・マイ・ロード

    1978年11月発売の通算10枚目のシングル。1956年に書かれたクリスマス曲で、何度かの改変を経て、ハリー・ベラフォンテが録音、翌1957年にも再度リリースした。ボニーMのヴァージョンは、その後1981年発売のアルバム『クリスマス・アルバム』に収録された。前半の曲は1956年のハリー・ベラフォンテのヒットのカヴァー、後半がフランク・ファリアンらによるオリジナル曲。英語の他、フランス語、スペイン語盤も出た。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  10. ハッピー・ソング

    1984年11月発売の通算29枚目のシングル。ボニーM・アンド・ボビー・ファレル・ウィズ・ザ・スクール・レベルズ名義。イタリアのディスコ・アーティスト、ベイビーズ・ギャングが1983年に発売してイタリア、ヨーロッパを中心にヒットしていたもののカヴァー。フランクフルト近郊の米軍基地の小学生、中学生の子どもたちを集めてコーラスをいれた。このコーラス隊がザ・スクール・レベルズ。ほかにジュディー・チークスらがコーラス。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  11. ベルファスト

    1977年9月発売の通算6枚目のシングル。4曲連続でドイツのチャートで1位を記録。本国ドイツでの人気を決定づけた。メンバーのマーシャ・バレットがソロ時代にソングライターから提供され歌っていた曲。そこでボニーMでも彼女がリードになり、以後彼女はリードをとるようになる。もちろん、曲のテーマは北アイルランド紛争を描いたもので、当初は「デ リー」というタイトルだった。アメリカ・カナダでは発売されなかった。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  12. フレー!フレー!

    1979年3月発売の通算13枚目のシングル。これはもともとアメリカの子ども用の曲として19世紀から知られているものをアレンジして、ディスコ化したもの。これまでにもビング・クロスビー、シャーリー・テンプル、アニメのチップマンクスなども録音し、広くメロ ディーが知られている。ドイツでは7曲連続で1位になるところを逃した曲となった。アルバムには収録されずシングルのみなのでCD化は珍しい。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  13. 栗色の髪の少女

    1978年4月発売の7枚目のシングル「バビロンの河」のB面に収録された。これも、西インド諸島に伝わる伝統的な子ども用楽曲を元にしてディスコ・アレンジしたもの。ジャマイ力を発祥とするこの英語タイトルのゲームがあるという。子供たちが4~5人で手をつないで輪を作り、その中で別の子が踊るというもの。その後、1993年、このヴァージョンはフランク・ファリアンによってリミックスされる。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  14. ペインター・マン

    1979年2月発売の12枚目のシングル。1978年7月発売の3枚目のアルバム『ナイトフライト・トゥ・ヴィーナス』に収録されていたものが後からシングルカットされた。元々は、イギリスのグループ、クリエーションが録音し1966年10月に発売、イギリスでトップ40入り(36位)をした曲のカヴァー。オリジナル後、ニュージーランドのラリーズ・レベルズというバンドもカヴァーしたが、ボニーMのものが最大のヒットになった。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  15. ノー・ウーマン、ノー・クライ

    1976年発売の2枚目のシングル「ダディ・クール」のB面に収録、その後デビュー・アル バム『テイク・ザ・ヒート・オフ・ミー』にも収録。元々はジャマイカの世界的レゲエ・グループ、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの代表的ヒット。マーリーのものは1974年10月にリリースされ、1975年にイギリスで最高位22位、1981年に再度イギリスでヒットし、最高位8位。その後、1996年にはフージーズもカヴァーしてヒットさせている。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  16. 世界はルンルン

    1981年11月発売の21枚目のシングル。マーシャ・バレットがリードを担当。またボニーMのダンサー・メンバー、ボビー・ファレルがラップ部分を担当している。曲の途中までは軽快なアップテンポで進むが、後半3分16秒あたりからいきなりスローなメロディーを歌う。後半のバラード「ドント・キル・ザ・ワールド」でリードを担当しているのはブライアン・ポールとブライアン・スレッテン。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  17. マイ・フレンド・ジャック

    1980年4月発売の17枚目のシングル「アイ・シー・ア・ボート・オン・ザ・リヴァー」との両A面曲。元々はイギリスのグループ、ザ・スモークが1967年にヒットさせたもののカヴァー。曲の内容は、当時はやっていたLSDなどのドラッグ使用を想起させるものだという。そのためイギリスでは放送禁止となり、同国のチャートでは3週のみチャート入り最高位は45位にとどまった。ただ他のヨーロッパではそこそこヒットした。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  18. ヤング、フリー&シングル

    1985年発売の31枚目のシングル。同年発売の通算8枚目のアルバム『アイ・ダンス』収録。同アルバムは結局、オリジナル・アルバムとしてはグループ最後のものとなった。(ほ かにコンピレーションやベストアルバムは多数出た) サウンド的には当時の「ブリティッシュ・インヴェージョン」のアーティスト、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブなどの方向性に似た感じとなっている。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

  19. ダンシン・イン・ザ・ストリート

    1978年に11枚目のシングルとしてシングルのみでリリースされた。マーサ&ヴァンデラスのヒットとは同名異曲。ボニーMの生みの親、プロデューサーのフランク・ファリアンのオリジナル曲。これは、フランクが好きそうなニューヨーク・ファンク・サウンド、BTエキスプレスやブラス・コンストラクション、クール&ザ・ギャングあたりを彷彿とさせる作品。時期こうしたファンクを「ブルックリン・ファンク」などと呼んだこともあった。

    【解説】吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

ボニーMの『ベスト・ヒッツ~怪僧ラスプーチン』

吉岡正晴(音楽ジャーナリスト、DJ)

日本でも「怪僧ラスプーチン」や「サニー」、「バビロンの河」などのディスコ・ヒットでよく知られているミュンヘンのディスコ・グループ、ボニーM。大変ユニークなこのグループのプロフィールを簡単にご紹介しよう。

ボニーMは、ドイツ人シンガーでプロデューサーでもあるフランク・ファリアン(1941年7月18日生まれ)が世界的なブームとなりだしていたディスコに注目し、ディスコ曲「ベイビー・ドゥ・ユー・ウォナ・バンプ」を1974年12月に録音したことから始まる。彼はその後もディスコ・ヒットを作るために、自分がフロントにでるより見栄えのいいアーティストを起用し、自分は裏方でレコード作りをすることを選択。

オーディションで選んだリズ・ミッチェル、マーシャ・バレット、メイジー・ウィリアムス、ボビー・ファレルらをフロントに出し、レコードを作った。「ダディ・クール」を皮切りに「サニー」「マ・ベー カー」などの大ヒットを放ち彼らは世界的人気を獲得した。だが実際に歌っていたのは、リズとマーシャで、他のメンバーはそれほど歌っておらず、ライヴではダンサー、簡単なバック・コーラ スとして活動した。1980年代中頃以降人気も下降。だが、彼らの楽曲は様々な形でリミックスなどされ、不死鳥の如く蘇った。

一方、プロデューサーのフランク・ファリアンは、ボニーMのメンバーを思うように管理できないことから別のディスコ・グループを作ろうと考える。それが、ミリ・ヴァニリというグループだった。フランクは、スタジオ・ミュージシャン、シンガーを集め、1988年11月アルバム『オール・オ ア・ナッシング』をリリース。さらに1989年3月『ガール・ユー・ノウ・イッツ・トゥルー』をリリース。これが全米で600万枚以上のセールスを記録、グラミー賞新人賞まで獲得した。ところが、ジャケットやビデオに映っている2人は見栄えのいいモデルで実際は歌っていなかったことがわかり、グラミー賞ははく奪され、彼らは事実上の解散へ。見栄えのいいモデルとひじょうにポップな楽曲の組み合わせが世界的なヒットになるという、いかにもMTV時代を象徴する出来事になった。

ボニーMは実質8枚のアルバムをリリース。

フランク・ファリアンのレコード・プロデューサーとしての力量がもっとも発揮されたのがボニーMとミリ・ヴァニリだった。

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