海外アーティストサリナ・ジョーンズ スーパーベスト 恋人よ我に帰れ
サリナ・ジョーンズ スーパーベスト 恋人よ我に帰れ
商品名 サリナ・ジョーンズ スーパーベスト 恋人よ我に帰れ
発売日 2009年02月14日
商品コード MIDR-1051
JANコード 4571117351973
定価(税込) 2,619円
収録時間 77分44秒

ジャズ・ヴォーカルの女王、サリナ・ジョーンズの名唱で贈る珠玉のスタンダード全20曲!!


歌詞・楽曲解説付

収録内容


  1. A列車で行こう

    A列車とはニューヨークの地下鉄8番線を走る列車のことで、これに乗るとハーレムへ行ける。1941年にデューク・エリントン楽団の編曲者ビリー・ストレイホーンが書いたこの名曲は、エリントン楽団のクロージング・テーマ曲でもある。エリントンはハーレムの「コットン・クラブ」に1927年から5年間出演して有名になった。

    【解説】青木 啓

  2. センチメンタル・ジャーニー

    懐かしい故郷へのセンチメンタルな旅に出よう。第2次大戦中の1944年にバド・グリーンが作詞、バンドリーダーのレス・ブラウンがベンホーマーと作曲。専属歌手ドリス・デイをフィーチャーしたブラウン楽団のレコードが1945年の春に大ヒット。そして8月に戦争が終り、兵士たちは故郷へ帰る。サリナの軽いスイング感とペイソスが快い。

    【解説】青木 啓

  3. ベニスの夏の日

    イタリアの水の都ベニスを訪れたアメリカ人女性が骨董店の魅力ある主人と知り合ってという1955年のイギリス映画『旅情』(主演キャサリン・ヘプバーン、ロッサノ・ブラッツィ)の主題歌。作曲アレッサンドロ・チコニーニ、作詞はカールシグマン。日本でロッサノのレコードがヒット。

    【解説】青木 啓

  4. 我が心のジョージア

    望郷の歌とも愛の歌とも扱える美しいバラード。1930年にスチュアート・ゴーレル(詞)とホーギー・カーマイケル (曲)が共作。1960年にはジョージア州出身者レイ・チャールズのレコードが大ヒット。1979年にジョージア州の州歌になった。

    【解説】青木 啓

  5. カナダの夕陽

    ビリー・ホリデイと共演したこともあるジャズ・ピアニストのエディ・ヘイウッドが1956年に作曲。ノーマン・ギンベルが歌詞をつけた。同年にエディとユーゴー・ウィンターハルター楽団の共演盤、アンディ・ウィリアムス盤がヒット。サリナはシャッフル調でジャンプするバンドに乗り、カナダのスキー場でのロマンスを独自の語り口で聴かせる。

    【解説】青木 啓

  6. 想い出のサンフランシスコ

    1954年にダグラス・クロス(詞)ジョージ・コリー(曲)が共作。1962年にトニー・ベネットがサンフランシスコのホテルで歌い、好評を得たことから録音、同年夏にヒットしてミリオンセラーを記録した。このきれいな望郷のバラードは1969年、サンフランシスコ市の市歌になっている。ベネットはニューヨーク生まれの人。

    【解説】青木 啓

  7. あなたと夜と音楽と

    ハワード・ディーツとアーサー・シュワルツの作品で、1934年のミュージカル『音楽と復讐』のヒットナンバー。夜と恋のまことにエモーショナルな素晴らしい歌のひとつだろう。フランク・シナトラの快唱盤があるけれど、このサリナの歌唱も見事なもので、心ときめくスイング感、誘いかける甘美な表情がうれしいムードをかもし出す。

    【解説】青木 啓

  8. 月光価千金

    1928年にチャールズ・トバイアスとウィリアム・ジェロームが作詞、ラリー・シャイが作曲、ビング・クロスビーのソロと楽団員の合唱を入れたボール・ホワイトマン楽団のレコードがヒット。名コメディアンのエノケンこと榎本健一の持ち歌としても親しまれた。サリナはミディアムテンポで柔らかくロマンティックに歌っている。

    【解説】青木 啓

  9. ムーンライト・セレナーデ

    グレン・ミラー楽団のテーマ曲としてあまりにも有名な佳調。ミラーがジョゼフシリンガーに師事していた1935年に作曲と編曲の練習で作曲したという。39年にミラー楽団のレコードがヒット、間もなくミッチェル・パリッシュが歌詞をつけた。

    【解説】青木 啓

  10. ブルー・ムーン

    ロレンツ・ハートとリチャード・ロジャースの傑作だが、世に出るまで時間がかかっている。もともとは1933年に書かれた映画主題歌だったが使われず、改作して34年に出版、35年に大流行した。サリナは下手な歌手なら恐ろしくなるようなテンポで歌い、原曲のペイソスの魅力を活かしている。

    【解説】青木 啓

  11. バードランドの子守唄

    ピアニストのジョージ・シアリングが1952年にニューヨークのジャズクラブ「バードランド」にちなんで作曲した。ウォルター・ドナルドソン(曲)とガスカーン(詞)のスタンダード「ラヴ・ミー・オア・リーヴ・ミー」のコード進行に基づいている。歌詞はB・Y・フォスターがつけた。この伴奏にヴァイブが出てくると、あのシアリング・クインテットを連想なさる方が多かろう。

    【解説】青木 啓

  12. マイ・ファニー・バレンタイン

    ロレンツ・ハート(詞)とリチャード・ロジャース(曲)の名コンビが書いた1937年のミュージカル『ベイブス・イン・アームズ』のナンバー。サリナは思い切りスローなテンポで歌うが、重くならず、この奇妙な恋の歌とサリナ自身の個性の味を見事に出している。ストリングスの流れとギターソロもいい。

    【解説】青木 啓

  13. マイ・ブルー・ヘブン

    我が家の楽しさ素晴らしさを歌った庶民感覚満点の名曲。1924年にウォルター・ドナルドソンが作曲し、友人のジョージ・ホワイティングが作詞をつけた。1927年にジーン・オースティンのレコードが大ヒット。日本では1928年に堀内敬三の訳詞「青空」で大流行。「私の青空」としても知られている。

    【解説】青木 啓

  14. クライ・ミー・ア・リバー

    1953年にアーサー・ハミルトンが幼いころからの友人であるジュリー・ロンドンのために書いた。ジュリーのレコードは1955年にヒット。サリナはひところジュリーの歌を研究していた。でもお聴きの通り、この歌は完全にサリナのものになっている。

    【解説】青木 啓

  15. イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン

    1932年のドラマ『グレートマグー』のためにビリー・ローズとエドガー・Y・ハーバーグが作詞、ハロルド・アーレンが作曲した「君が私を信じれば」という歌だったが、1933年の映画『テイク・ア・チャンス』に改題して使われ、主演者クリフ・エドワーズのレコードがヒットした。“絵に描いた海に浮かぶ紙の月・・・"という舞台人らしい歌だ。

    【解説】青木 啓

  16. 恋人よ我に帰れ

    この歌が作られてから半世紀に近い歳月が流れたが、今もなお人気が大変に高い。作詞は後にリチャード・ロジャースとコンビになるオスカー・ハマースタイン2世、作曲はハンガリー出身のシグムンドロンバーグ。1788年のニューオーリンズで始まる自由のための闘いと恋の物語、という1928年初演のミュージカル『ニュー・ムーン』のナンバー。

    【解説】青木 啓

  17. 君を想いて

    バンドリーダーでピアニストのレイノーブルが1934年に書いたラヴ・ソング。当時ノーブル楽団、ビング・クロスビーのレコードがヒット。1950年の映画『情熱の狂想曲』に使われ、主演者ドリス・デイがハリー・ジェームズ (トランペッ ト)と共演したレコードが人気を呼んだ。

    【解説】青木 啓

  18. ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ

    1943年の映画『サムシング・トゥ・シャウト・アバウト』のためにコール・ポーターが書き、アカデミー主題歌賞にノミネイトされた。ダイナ・ショアのレコードが大ヒット。ヘレン・メリルの持ち歌でもある。

    【解説】青木 啓

  19. ブラック・コーヒー

    1948年にポール・フランシス・ウェブスター(詞)とソニー・バーク(曲)が共作。サラ・ヴォーンが気に入って1949年に録音、ヒットチャートに入った。ペギー・リーのレコードも広く知られている。ブラックコーヒーを飲みながら来るかもしれない恋人を待つ・・・という辛さをサリナはおさえた歌唱で見事に表現する。

    【解説】青木 啓

  20. グッドバイ

    有名な作・編曲・指揮者・ピアニストのゴードン・ジェンキンスが1934年に器楽曲「ブルー・セレネード」として作曲、あとから詞をつけて改題。1935年からベニー・グッドマン楽団がクロージング・テーマ曲として演奏し、36年に同楽団のレコードがヒットした。

    【解説】青木 啓


サラ、エラ、ビリー・・・彼女たちは、今、私の心の中で生きている

所 忠男

1995~97年にかけてサリナ・ジョーンズは、ジャズ・スタンダード曲120曲以上を録音するという偉業をとげた。これはその時に彼女の口から出た言葉である。サラ、エラ、ビリーとは言うまでもなく、サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルド、ビリー・ホリディーのことだ。この三人の名花たちは当時すでにこの世 になく、次にこうした名曲を歌える歌手としてサリナ・ジョーンズは、まわりからも大きな期待を寄せられ、待ち望まれていたのだが、やっと重い腰を持ち上げたわけだ。
女性として歌手として、体力的にも気力的にも、サリナの最も完成した、円熟した歌が聞けるそのレコーディングから、このアルバムはジャズ・ファンならずとも知らない人は少ないであろう名曲中の名曲20曲が厳選されたのである。

90年なかばまでに、日本のビクター・レコードをメインに20枚以上のアルバムを録音発売してきたサリナも、本格的なジャズ・ヴォーカルに正面から取り組むことには躊躇していた。上記大歌手たちの名唱に気後れがあったとしても無理もない。しかしこの時、サリナは敢然と挑戦状を叩きつけたのだ。サラも、エラも、ビリーも自分の中に吸収したと言う。彼女たちは今、自分の中で生きている、とも言い切ったのである。
時の環境もサリナのやる気にフォローの風を送った。1944年アメリカはヴァージニア州に生まれ、ニューヨークで歌手デビューしたサリナだが、彼女のやや淡白でデリケートな歌い口はアメリカよりもむしろヨーロッパで受けた。1966年に海を渡りロンドンにフランチャイズを移した彼女は、ロニー・スコット、トーク・オブ・ザ・タウン等の有名なジャズ・クラブで歌い人気を着実に高めて行った。日本で注目されるきっかけを作ったのは、RCA盤(現在のBMG)「アローン・アンド・トゥゲザー」というサリナのLPアルバムが輸入され売れ出したことだ。その後のサリナの活躍は説明の必要もないだろう。
ビクター・レコードから発売された、ケ ニー・バレル(ギター)との共演「メロ ディーズ・オブ・ラブ」スタッフ (人気フュージョン・バンド)との共演「マイ・ラブ」等はジャズ・ヴォーカル・アルバムとしては超ベストセラーとなった。話を戻そう。1990年に入ると、ロンドンを中心とするイギリスは世界で最もホ ットなジャズ・シーンが展開された。二 ューヨークよりも日本よりもジャズ全般の人気復活が顕著となった。ジャズ専門のFMラジオステーションがロンドン、マンチェスター等大都市に出現、放送を通じてジャズのCDを宣伝販売してかなりの成功を収めたらしい。ロンドンのFM局「JAZZ FM」、「MERODY RADIO」、BBCの「RADIO2」、マン チェスターの「JAZZ FM」等はその代表的なものであった。
こうした影響を受けてレコード店でのジャズ・コーナーに多数のCDが在庫されるようになった。そしてイギリス最大手のレコード会社HMVグループの会長、スチュワート・マカリスター氏がサリナ・ジョーンズの才能に目をつけてHMVの録音制作へと話が進んで行ったのである。これでサリナにやる気が出なかったら不思議なくらいだ。案の定、素晴らしい出来ばえのレコーディングだった。録音スタジオは、サリナ・ジョーンズお気に入りの名エンジニア、マイクロストレヴァー氏を擁するホイットフィールド・ストリート録音スタジオ(旧CBSスタジオ)。そしてトレヴァー氏が全曲エンジニアとして手腕を振るったことは言うまでもない。アレンジは、サリナと数々のツアーを共にしたキーボード奏者、ポール・ソーテル
彼女にとって初めて歌う曲も多数あって、レコーディングに入る数ヶ月前からLPやCDを聴きまくったという話を何度も聞かされたものだ。無理もない。戦前から日本のファンに親しまれた「ダイナ」、「月光価千金」、「私の青空」(マイ・ブルー・ヘブン) などはディック・ミネやエノケンの歌で日本に紹介され、むしろ日本語でのほうがポピュラーなのかも知れない。録音は全て1995~97年に行われた。

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