海外アーティスト | ヴェリー・ベスト・オブ・ジュリー・ロンドン 想い出のサンフランシスコ |
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商品名 | ヴェリー・ベスト・オブ・ジュリー・ロンドン 想い出のサンフランシスコ |
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発売日 | 2003年06月04日 |
商品コード | MITO-1027 |
JANコード | 4571117350419 |
定価(税込) | 2,409円 |
収録時間 | 60分00秒 |
魅惑のハスキー・ヴォイス~ジュリー・ロンドンの魅力を十二分に伝える珠玉の名曲全25曲。
※一部オリジナルマスターテープに起因するノイズ等が有ります
歌詞・解説付
収録内容
ジュリー・ロンドンは、ほぼ半世紀も前に美貌の歌姫として、絶大な人気を博した人だが、その魅力は、歌手としてのみならず、女優としても多くの男性のハートを魅了した。74歳で2000年10月に亡くなった。しかし、我々の心のなかではジュリーは、あの半世紀前の知的な美貌の輝きのままで生き続けている、といっていいだろう。まさに、永遠の歌姫であり、その輝きは消え去ることはない。
ジュリー・ロンドンは1926年9月26日、カリフォルニア州サンタローザの生まれ。両親は歌と踊りで売っていた芸人コンビという芸能一家に育ち、3歳の時には、ラジオに出演して、<フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン>を歌ったというエピソードも残っている。1951年、一家がロサンゼルスに移ったとき、15歳のジュリーは、学校をやめて、エレベーターガールになる。その頃、エレベーターに乗り合わせたスー・キャロル(映画『シェーン』の主演で有名な俳優アラン・ラッドの夫人で、俳優エージェントでもあった)に、その美貌が認められて、スカウトされた。ジュリー自身は、最初は冗談だと思っていたが、映画の主演契約書が届いて初めて、本当だったことが判ったという。
かくして、1945年『On Stage Everybody』という作品で映画デビューを果たしている。彼女の芸能界へのスタートは女優だったわけだ。47年には『赤い家』、『愛と血と大地』(48年)、『機動部隊』(49 年)、『帰ってきた男』(50年)、『The Fat Man』(51年)等に主演し、新人女優として順調に活躍を続けた。47年には、テレビ俳優で、ドキュメンタリータッチの刑事もの番組『ドラグネット』で成功したジャック・ウェッブと結婚。51年に、専業主婦になるため一時引退してしまい、二人の娘をもうけている。しかしジャックとの仲は5年しか続かず53年に離婚。同時に芸能界への復帰をめざし、テレビやナイト・クラブなどに出演。その頃から歌手としての活動も始め、当時、新進のソングライター兼歌手だったボビー・トゥループにレッスンを受けていた。レコード・デビューは、54年に録音した『ベツレヘムズ・ガールフレンズ』。これは、クリス・コナー、カーメン・マクレエとジュリーの3人が4曲づつ吹き込んだもので、彼女は、<時には母のない子のように>、<ドント・ウォリー・バウト・ミー>、<フォギー・デイ>、<ユー・アー・ブラゼイ>を収録している。この時は、ジャズ・クラリネットの名手トニ・スコットのカルテットの伴奏という本格的なジャズ歌手としてのデビューだったが、あまり評判にはならなかった。
55年、ボビー・トゥループがプロデューサーをしていたリバティー・レコードと契約したジュリーは、ロサンザルスのジョニー・ウォルシュのナイトクラブで歌って好評だった<クライ・ミー・ア・リ ヴァー>を吹き込んだ。これがたちまち大ヒットし、55年のベストセラーとなって一躍人気歌手の仲間入りを果たした。この曲は、後にも先にも彼女にとって唯一のミオンセラーだったが、この一曲で不動の人気を確立したのだから、まさに強烈なインパクトを持っていたのだ。
芸能雑誌の『テーマ』の人気投票でも56年からの出演依頼が殺到。一方で、テレビのショー番組では、ペリー・コモ、スティーブ・アレン、エド・サリバンといった人気番組に出演。歌手としての人気が決定的なものとなった。そうなると、ハリウッドでも彼女をほってはおかず、映画主演も多くなり、57年のジェーン・マンスフィールド主演の『女はそれを我慢できない』では、主題歌のみならず劇中でくクライ・ミー・ア・リヴァー>を歌ったりした。58年には、ゲイリー・クーパーとの共演で『西部の人』に出演。61年には俳優ジョージ・ラフトの伝記映画『ギャング紳士録』に出演するなど、女優としてもスターの仲間入りを果たした。
ところで、話しはもとにもどるが、55年にはデビューアルバム『彼女の名はジュリー』を吹き込んでいる。大ヒットした<クライ・ミー・ア・リヴァー>を含む13曲を、バーニー・ケッセルのギター、レイ・レザーウッドのベースのみの伴奏で歌ったインティメントなムードあふれる作品。このアルバムも、大いに評判となり、ジュリーの代表作に数えられるものとなった。
一方、私生活の方では、デビューLPの成功を受けて、58年に録音した『彼女の名はジュリーVol.2』で共演したギターのハワード・ロバーツと同年に結婚。しかし1年あまりで破局となり、59年には、彼女のヴォーカルコーチとして尽くしてきたボビー・トゥループと結婚。以後は、99年にはトゥループが80歳で世を去るまで続いた。ボビーの強力なバックアップを得て、ジュリーは、歌手としての着実な成長をとげていった。
彼女がリバティー・レコードに残したアルバムは、68年後半に吹き込んだ『ヤミー・ヤミー・ヤミー』まで、オリジナルLPだけでも、29枚にのぼる。単純に計算しても、55年から68年までの13年間に平均2枚以上のアルバムを録音していることになる。これは、驚くべきペースだ。この一事をとっても、当時のジュリーの人気の凄さがうかがえよう。
60年代後半からは、ほとんどのポピュラー・シンガーがそうであったように、ロック全盛の波に押されるように、歌手としての活躍はもっぱらテレビ中心となり、70年代には『エマージェンシー』というテレビシリーズに出演したりした。77年にはテレビの火災パニック映画『インフェルノ・ホスピタル』(79年に日本でも放映)に、ボビーと出演したりした。その後は、81年にバート・レイノルズが監督・主演したハードボイルド映画『シャーキーズ・マシーン』の中で、<マイ・ファニー・バレンタイン>を歌っていた。
ジュリーの80年代以降の活躍についてはほとんど伝わっていない。トゥループとの間には、娘と双子の息子がいたという。晩年はロサンゼルスで、孫たちに囲まれての静かな余生を送っていたのだろう。85年に脳卒中で倒れてからは、体調を崩し、2000年10月19日、心臓病のために74年の生涯を閉じた。
山口 弘滋