海外アーティストナット・キング・コール/プレミアム・ベスト アンフォゲッタブル
アース・ウインド&ファイアー ベスト・ソングス
商品名 ナット・キング・コール/プレミアム・ベスト アンフォゲッタブル
発売日 2023年04月19日
商品コード MIUM-5004/5
JANコード 4571117356022
定価(税込) 2,860円
収録時間 DISC-1:62分39秒
DISC-2:61分23秒

時代を越えて愛された優しく甘美な歌声!!これぞ“キング・コール”の名曲を網羅した珠玉のベストアルバム。


歌詞(対訳なし)・解説付


収録内容

*MONO
**モノラル録音をステレオ化したものです。
●この音源は、オリジナル・マスター・テープに起因するノイズ等がありますがご了承ください。


    DISC-1
  1. モナ・リザ

    ナット・キング・コールといえば、まずこの歌を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。1949年の映画『別働隊(Captain Carey, U.S.A.)』の挿入歌で、翌50年に発売されたコールのヴァージョンは、「ビルボード」誌シングル・ヒットチャート1位を獲得しました。ここに収録されているのは、コールが自身のヒット曲を再録音したアルバム『ナット・キング・コール・ストーリー』(1961年)からのヴァージョンです。

    【解説】村井康司

  2. アンフォゲッタブル

    「モナ・リザ」の次に発売された1951年の曲です。「ビルボード」のシングル盤ヒットチャートでは14位に留まりましたが、91年に娘のナタリー・コールが父の録音を使った「ヴァーチャル共演」作を出してグラミー賞を受賞しました。これも『ナット・キング・コール・ストーリー』での再録音です。

    【解説】村井康司

  3. 枯葉*

    ジョゼフ・コズマ作曲、ジャック・プレヴェール作詞によるシャンソンの名曲で、英語詞はジョニー・マーサーです。1950年に、コールと同じキャピトル・レコード所属の女性歌手ジョー・スタッフォードが英語で歌ってヒットさせ、その後アメリカでも親しまれるようになりました。これは53年発売のアルバム『シングス・フォー・ツー・イン・ラヴ』から。

    【解説】村井康司

  4. ネイチャー・ボーイ

    1948年に発売されて、ヒットチャート1位を8週間維持した大ヒット。作者はエデン・アーズで、彼は長髪にサンダルで放浪生活を送りながら東洋神秘思想を研究する、という、のちのヒッピーの走りこのような人物でした。「ネイチャー・ボーイ」は、アーベズが所属していた団体の名前でもあったそうです。『ナット・キン グ・コール・ストーリー』のヴァージョンを収録しました。

    【解説】村井康司

  5. スターダスト

    ホーギー・カーマイケルが1927年に作曲・発表した後、ミッチェル・パリッシュが1929年に歌詞を付けた、アメリカン・スタンダード・ソングを代表する1曲です。57年のアルバム『ラヴ・イズ・ザ・シング』に収録されていますが、コールは「この曲を歌うと疲れるから嫌だ」と言っていたそうです!

    【解説】村井康司

  6. イパネマの娘

    ブラジルの偉大な作曲家、アントニオ・カルロス・ジョビンの代表作。英語詞はノーマン・ギンベルによるもので、コールの遺作となったアルバム『L-O-V-E』(1965年)に収録されています。ボサノヴァの名曲をスウィング・ビートに編曲した趣向が洒落ていますね。

    【解説】村井康司

  7. 慕情 *

    1955年の映画『慕情 (Love Is a Many- Splendored Thing)』の主題歌で、作曲はサミー・フェイン、作詞はポール・フランシス・ウェブスターです。このコールのヴァージョンは1955年に、ネルソン・リドル編曲のオーケストラを従えて録音されたものです。

    【解説】村井康司

  8. モア

    1962年のヤコペッティ監督によるイタリア映画『世界残酷物語 (Mondo Cane)』の主題歌です。過激でいかがわしい映画のシーンに似つかわしくない美しいメロディで、今でも愛されているスタンダードになりました。遺作『L-O-V-E』からの選曲です。

    【解説】村井康司

  9. カチート*

    キューバのハバナでオーケストラを録音し、コールがロザンゼルスで歌をかぶせたアルバム『コール・エスパニョール』(1958年)からの1曲。メキシコのソングライター、コンスエロ・ベラスケスの曲です。このアルバムが好評だったので、コールはこの後もラテン音楽のアルバムを2枚制作しました。

    【解説】村井康司

  10. エル・チョクロ*

    1958年のアルバム『コール・エスパニョール』に続くラテン・アルバム『ミス・アミーゴス』(1959年)の収録曲です。1903年に作曲されたアルゼンチン・タンゴの名曲で、「キス・オブ・ファイアー」という英語の題名でもよく知られています。

    【解説】村井康司

  11. テ・キエロ・ディヒステ*

    メキシコの女性作曲家マリア・グレベールが1929年に作曲した曲で、スペイン語のタイトルは「あなたが好き、と君が言た」という意味です。英語詞は「マジックイズ・ザ・ムーンライト」のタイトルでチャールズ・パスクァーレが書きました。1958年の『コール・エスパニョール』からの選曲です。

    【解説】村井康司

  12. グリーン・アイズ*

    もともとはスペイン語の歌で、1929年にキューバでヒットし、アメリカで英語の歌詞が付けられたのはその2年後の1931年でした。1941年のジミー・ドーシー楽団でのヒット以後、アメリカ人の歌手にも親しまれるようになった曲です。『ミスアミーゴス』(1959年)収録。

    【解説】村井康司

  13. 暑い夏をぶっとばせ

    ハンス・カルステが作曲したドイツの曲で、チャールズ・トビアスが英語詞を付けたものです。1963年5月にリリースされ、ビルボードのヒットチャート6位まで上昇しました。この曲が、コールがヒットチャート10位以内にランクインした最後の曲となりました。同名のアルバムの1曲目に収録されています。

    【解説】村井康司

  14. スイート・ロレイン*

    クリフ・バーウェル(曲)とミッチェル・パリッシュ(詞)による1928年の曲。コールは早くから演奏していたようですが、ジャズをたっぷり披露した『アフター・ミッドナイト』(1957年)で初めて録音しました。名手ハリー・“スウィーツ“・エディソンのトランペットが参加しています。

    【解説】村井康司

  15. 君住む街で

    1956年のブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」のために、フレデリック・ロウ(曲)とアラン・ジェイ・ラーナー(詞)が書いた曲。アルバム『ナット・キング・コール・シングス・マイ・フェア・レディ』(1963年)に収録されています。

    【解説】村井康司

  16. ロンリー・ワン*

    1957年のアルバム『アフター・ミッドナイト』からの1曲。デューク・エリントン楽団出身のファン・ティゾールのトロンボーンと、ジャック・コスタンゾのボンゴが曲を彩ります。

    【解説】村井康司

  17. オレンジ色の空

    ナット・キング・コールがこの曲を最初に録音したのは1950年。スタン・ケントン楽団が伴奏をつとめ、シングル盤ヒットチャート11位まで上昇しました。ここに収録したヴァージョンは、『ナット・キング・コール・ストーリー』のものです。

    【解説】村井康司

  18. 恋人よ我に帰れ**

    シグムンド・ロンバーグ(曲)とオスカー・ハマースタイン2世(詞)が、ミュージカル「ニュー・ムーン」のために作った1928年の曲です。ミルドレッド・ベイリーやビリー・ホリデイなどのジャズ歌手によって歌われたスタンダードで、コールは1953年にシングル盤を発表、ヒットチャート16位となりました。編曲はビリー・メイです。

    【解説】村井康司

  19. 君を想いて

    イギリス出身のバンドリーダーで作曲家のレイ・ノーブルが1934年に作詞・作曲した曲です。ゴードン・ジェンキンスが編曲を担当したアルバム『ザ・ヴェリー・ソート・オブ・ユー』(1958年)に収録され ています。

    【解説】村井康司

  20. ユー・アー・マイ・サンシャイン**

    1939年に、ジミー・デイヴィスとチャールズ・ミッチェルが作った曲で、デイヴィスはのちにルイジアナ州知事になったため、ルイジアナ州の州歌ともなりました。このコールのヴァージョンは、1955年8月にネルソン・リドルが編曲し指揮を務めたオーケストラと共に録音されたものです。

    【解説】村井康司

  21. <ボーナストラック>
  22. アンフォゲッタブル(withナタリー・コール)

    ナット・キング・コールの長女で歌手として大成したナタリー・コールが、1991年のアルバム『アンフォゲッタブル』で発表した「父と娘のヴァーチャル・デュエット」です。61年に録音された父の音源を素材として、最新技術を駆使した共演が実現しました。アルバムは1992年のグラミー賞の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」を、曲は「レコード・オブ・ザ・イヤー」を受賞し、大きな話題となりました。

    【解説】村井康司

    DISC-2
  1. プリテンド

    1952年に録音され、53年に全米ヒットチャート3位まで上昇した、ナット・キング・コールの代表曲のひとつです。「ブルーな気分のときはハッピーなふりをしよう。それは決して難しいことじゃない」という歌詞を持つ曲。ここでは61年に『ナット・キング・コール・ストーリー』のために再録音したものを収録しています。

    【解説】村井康司

  2. ラヴ/ L-O-V-E

    コールの病気が発覚する直前の1964年9月に発売された、彼の最後のシングル盤です。ベルト・ケンプフェルト(曲)とミルト・ゲイブラー(詞)のコンビによる曲で、コールはこの曲を日本語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、フランス語でも録音しました。65年2月、亡くなる直前に発売されたアルバム『L-O-V-E』に収録されています。

    【解説】村井康司

  3. ルート66

    ソングライターのボビー・トゥループが、ペンシルベニア州からカリフォルニア州までドライブした経験をもとに作った、「国道66号線」を使ってアメリカを走るという歌詞を持つブルースです。コールのトリオが1946年に発表してヒットし、今でもよく歌われるスタンダードとなりました。コールは何度かこの曲を録音していますが、これは『ナット・キング・コール・ストーリー』収録のヴァージョンです。

    【解説】村井康司

  4. トゥー・ヤング

    「モナ・リザ」「プリテンド」と並ぶ、ナット・キング・コールの代表曲です。1951年に発売されて全米ヒットチャートの1位に輝き、その年最も売れたレコードとなりました。ここでは『ナット・キング・コール・ストーリー』のために録音したものを収録しました。

    【解説】村井康司

  5. ラヴ・レターズ*

    ヴィクター・ヤング(曲)とエドワード・ヘイマン(詞)の手による1945年の曲。多くの歌手が歌っているスタンダードです。コールは1956年にこの曲を録音し、アルバム『ラヴ・イズ・ザ・シング』(1957年)のモノラル・ヴァージョンのみに収録されました。

    【解説】村井康司

  6. イッツ・オンリー・ア・ペイパー・ムーン*

    広く親しまれているスタンダード曲です。作曲はハロルド・アーレン、作詞はイップ・ハーバーグとビリー・ローズで、1932年の作品です。コールのこのヴァージョンは、1957年のアルバム『アフターミッドナイト』から。ハリー・“スウィーツ“・エ ディソンがトランペットで参加しています。

    【解説】村井康司

  7. フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン

    バート・ハワードが1954年に作詞・作曲した曲で、「イン・アザー・ワーズ」というタイトルでも知られています。コールのこのヴァージョンは、1962年にリリースされたジャズ・ピアニストのジョージ・シアリングとの共演作『ナット・キング・コール・シングス/ジョージ・シアリング・フレイズ』に収録されています。

    【解説】村井康司

  8. 世界一周

    1956年の映画『八十日間世界一周』主題歌としてヴィクター・ヤングが作曲した曲。作詞はハロルド・アダムソンですコールのこの歌唱は1957年に録音されたもので、ネルソン・リドルが編曲を担当しました。ボンゴをうまく使ったラテンのサウンドが施されています

    【解説】村井康司

  9. 夕陽に赤い帆**

    1935年に出版された曲で、同年ビンク・クロスビーがヒットさせました。コールは1951年にこの曲を録音し、ヒットチャート24位が最高位でした。アルバム『アンフォゲッタブル』(1954年)に収録されています。

    【解説】村井康司

  10. キサス・キサス・キサス*

    キューバの作曲家オスバルド・ファレスが1947年に作ったラテンの有名曲。アメリカでも愛されている曲で、ビング・クロスビーやドリス・デイなども歌っています。1958年のラテン曲を集めたアルバム『コール・エスパニョール』からの1曲です。

    【解説】村井康司

  11. ソラメンテ・ウナ・ヴェス

    メキシコの作曲家オーガスチン・ララが1941年に作った曲です。メキシコで録音されたコールの3枚目のラテン・アルバム『モア・コール・エスパニョール』(1962年)に収録されています。

    【解説】村井康司

  12. 魅惑のワルツ

    1904年にイタリア人の作曲家フェルモ・ダンティ・マルケッティが作曲したワルツです。英語の歌詞はディック・マニングによるもの。コールのこのヴァージョンは1957年に録音されたもので、ネルソン・リドルが編曲を担当しています。

    【解説】村井康司

  13. 月光価千金

    1928年に出版されたアメリカの曲で英名は「ゲット・アウト・アンド・ゲット・アンダー・ザ・ムーン」ですが、日本では「月光価千金」という題名で親しまれ、曲が出版された年に早くも天野喜久代が録音しています。コールはこの曲を1963年のアルバム『ゾウズ・レイジー・ヘイジー・クレイジー・デイズ・オブ・サマー』のために録音しました。

    【解説】村井康司

  14. 恋におちた時

    ヴィクター・ヤング(曲)とエドワード・ヘイマン(詞)が1952年に書いた曲です。コールは1957年のアルバム『ラヴ・イズ・ザ・シング』でこの曲を録音し、同年の映画『イスタンブール』では、コールがこの曲を歌っています。また、コールの娘ナタリー・コールが父のこのヴァージョンと「ヴァーチャル・デュエット」した1996年のヴァージョンは、翌年のグラミー賞「ベスト・ポップ・コラボレーション・ウィズ・ヴォーカルズ」部門を受賞しました。『ラヴ・イズ・ザ・シング』はモノラル盤とステレオ盤の両方が発売されましたが、ここに収録したものはステレオ・ヴァージョンです。

    【解説】村井康司

  15. スマイル*

    チャーリー・チャップリンが映画『モダン・タイムス』(1936年)のために作曲した曲ですが、歌詞と「スマイル」というタイトルは、ジョン・ターナーとジェフリー・パースンズによって1954年に付けられました。歌詞付きのヴァージョンの最初のものが、ここに収録したコールによる1954年の録音です。シングル盤として発売され、全米ヒットチャート10位まで上昇しました。

    【解説】村井康司

  16. ランブリン・ローズ

    ノエル・シャーマンとジョー・シャーマンの兄弟が1962年に作った曲です。同年7月に発売されたコールのシングル盤は、全米ヒットチャートで最高2位となりました。アルバム『ランブリン・ローズ』に収録されています。

    【解説】村井康司

  17. ストレイトン・アップ・アンド・フライ・ライト

    1943年にコール自身が作詞・作曲し、4年に「ナット・キング・コール・トリオ」名義で発表した曲。コール・トリオにとって最初の大ヒットとなり、全米ヒットチャート9位まで上昇しました。コールはこの曲の歌詞を、牧師だった父親が説教で引用していた黒人民話をヒントに書いたそうです。ここでは『ナット・キング・コール・ストーリー』のために再録音したものを収録しています。

    【解説】村井康司

  18. カプチーナ

    ピノ・マッサーラ、ニーサ、ヴィト・パラヴィチーニによって作られたイタリアの曲で、英語詞はノエル・シャーマンが担当しています。コールのこのヴァージョンは1961年8月にシングル盤で発売されたものです。

    【解説】村井康司

  19. 歩いて帰ろう*

    1930年にフレッド・E・アレート(曲)とロイ・ターク(詞)が書いた曲です。コールは1951年にこの曲を録音し、翌52年に全米ヒットチャート8位となりました。今回収録したヴァージョンは『ナット・キング・コール・ストーリー』からのものです。

    【解説】村井康司

  20. ザ・クリスマス・ソング

    ロバート・ウェルズとメル・トーメが1945年に作った曲。トーメの回想によると、暑い盛りの7月に「寒い季節のことを歌にして涼しい気分になろう」と思って書いたそうです。46年にナット・キング・コール・トリオがストリングスと共に録音し、クリスマスソングの代表格となりました。これは61年の『ナット・キング・コール・ストーリー』のために録音されたステレオ・ヴァージョンです。

    【解説】村井康司

  21. <ボーナストラック>
  22. ルート66*( with ハリー・エディソン<トランペット>)

    このアルバムのDisc2の3曲目にも収録されている、ボビー・トゥループが作ったブルースです。こちらは1957年リリースの『アフターミッドナイト』からの選曲で、カウント・ベイシー楽団出身のハリー・"スウィーツ"・エディソンのトランペット・ソロがフィーチュアされています。

    【解説】村井康司



偉大なる歌手、ナット・キング・コールの生涯

村井康司

ナット・キング・コール (1919~1965年) は、アメリカを代表するジャズ/ポピュラー歌手です。1930年代にジャズ・ピアニストとして出発したコールは、40年代から歌手としての活動を始め、50年代にはヒットを連発、温かみのある声と自然で説得力にあふれた表現で世界的な大スターとなりました。まだ白人歌手が優勢だった40~50年代に、コールはアフリカン・アメリカン(黒人)としては最も人気の高い歌手となり、人種の壁を超えた「アメリカのエンターテイナーの象徴」となったのです。彼の所属したキャピトル・レコードは、1956年にロサンゼルスに「キャピトル・タワー」という愛称で知られる円錐形の本社ビルを建設したのですが、その建設費用の多くがナット・キング・コールのレコードの収益だったと言われ、キャピトル・タワーは「ナットの建てた家」とも呼ばれるようになりました。ここでは、決して長くはなかった、しかし栄光に包まれたナット・キング・コールの45年の生涯を、駆け足でたどってみることにしましょう。

ナット・キング・コール、本名ナサニエル・アダムズ・コールズは、1919年3月17日、アラバマ州モンゴメリーに生まれ、4歳のときに一家はイリノイ州シカゴに引っ越しました。父は牧師で母は教会のオルガン奏者でした。母からオルガンの弾き方を習ったナットは12歳でピアノの正式なレッスンを受け始め、めきめきと才能を発揮します。15歳で高校を中退したナットは、ベース奏者だった兄のエディとバンドを結成し、プロとして活動を開始しました。18歳のときに結婚した最初の妻と共にロサンゼルスに移住したナットは、そこで初めてのリーダー・グループ「ナット・キング・コール・トリオ」を結成、メンバーはナットのピアノ、オスカー・ムーアのギター、ウェスリー・プリンスのベースです。スウィングのビッグバンドが全盛だった30年代において、コールたちの小編成のサウンドは新鮮なものとして人気を博し、コールのモダンなピアノとムーアの技巧的なエレクトリック・ギターは、オスカー・ピーターソン・トリオをはじめとする後進に大きな影響を与えました。このときから使い始めた芸名「ナット・キング・コール」は、イギリス由来でアメリカでも親しまれている童謡「オールド・キング・コール」をもじったものだそうです。

ピアニストだったナットが歌を歌い始めたきっかけについて、ひとつの伝説が残されています。ある夜、ピアノで「スイートロレイン」という曲を弾いていたナットに向かって、酔客が「この曲を歌ってくれ!」とリクエストし、それに応えておずおずと歌ったら大受け、というストーリーです。どうもこのエピソードは事実ではなかったようですが、ナット本人もこの話が気に入って、みんなにそう言っていました。あるインタビューで彼は「僕はジャズ・ピアニストを目指していて、あるときから歌うようになった。感じたままをそのまま歌で表現したら、それが自分の形になった」と述べています。
スタートがピアニストで、歌はある意味余技だった、という経緯は、ナット・キング・コールの歌唱においての重要なポイントなのかもしれません。訓練を受けた声で朗々と歌うのではなく、語りの延長線上のようなナチュラルな表現で、歌詞を深く理解してじっくりと歌うことで、聴き手はまるで自分ひとりに向かってコールが語りかけているような親密さを感じるのではないのでしょうか。コールと並ぶ同時代の大歌手、フランク・シナトラの歌唱法にも、コールと同じ親密さが感じられます。

ナット・キング・コール・トリオは40年代初めからナットのヴォーカルをフィーチュアした曲をリリースするようになり、44年に最初の大ヒット「ストレイトン・アップ・アンド・フライ・ライト」を出します。洒脱で余裕にあふれ、どこかユーモラスでブルースっぽくもあるこの曲に代表されるスタイルは「ジャイヴ」と呼ばれ、現在でも根強いファンが少なくありません。たとえば現在屈指の実力を持つ女性ジャズ歌手でピアニストのダイアナ・クラールは、この時期のコールの音楽を深く愛し、自らカヴァーしています。クラールもピアニストとしてキャリアをスタートさせ、歌は後から始めた人なので、その点でも親近感を感じているのでしょう。

さて、ピアニストとして出発し、1940年代初めから歌手として活動するようになったコールは、40年代後半から広い意味でのポピュラー歌手として人気を博すようになっていきます。46年の「フォー・センチメンタル・リーズンズ」(全米ヒットチャート1位)、同年の「ザ・クリスマス・ソング」(同3位)、48年の「ネイチャー・ボーイ」(同1位)などが、コールが40年代後半に放った大ヒット曲です。そして50年代に入ると50年の「モナ・リザ」(1位)、51年の「トゥー・ヤング」(1位)、53年の「プリテンド」(2位)と、永遠の名曲、歴史的な大ヒット曲を次々に発表して、ナット・キング・コールは黒人として初めてと言っていい「アメリカを象徴するスター歌手」になったのです。

ここで、黒人のエンターテイナーとして、コールがいかに異例の成功を収めたか、そしてその反動として、いかに激しい人種差別主義者たちの攻撃を受けたか、について語っておきましょう。1940年代、ナット・キング・コール・トリオは、所属レコード会社キャピトル・レコードの「トップセラー・グループ」(最も売れている音楽家の一群)に認定されましたが、彼らはその一群の中で唯一の黒人アーティストでした。彼らはラジオ番組『キング・コール・トリオ・タイム』(1946年)で黒人として初めてラジオ番組の司会を担当し、コール個人はNBC系列のテレビ番組『ザ・ナッ ト・キング・コール・ショー』(1956~57年) で、やはり黒人として初のテレビ・ショーのホストを務めました。しかし人種差別的な人々の反発を恐れたのかスポンサーが付かず、『ザ・ナット・キング・コール・ショー』は1年で打ち切りになってしまったのです。番組打ち切りの直後、コールはこうコメントしました。「マディソン・アヴェニュー(広告代理店業界を指す)は暗闇を恐れている」
私生活においても、コールは人種差別的な脅しに直面しました。1948年、彼はロサンゼルスの白人しか住んでいなかった高級住宅街に家を購入したのですが、それに反発した白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン」(KKK)が、この家の前に燃える十字架を置いて脅しをかけたのです。その上、近隣の住宅所有者たちも、コールが住むことについて「ここには望ましくない人物は住んでほしくない」とクレームを付けました。
そして1956年、公演先のアラバマ州バーミンガムで恐ろしい事件が起きました。ステージで歌っていたコールに向かって3人の男が襲いかかり、暴行を加えたのです。彼らは人種差別主義者団体「北アラバマ市民評議会」のメンバーで、その後の捜査により、コール誘拐の意図があったことが判明しました。その後の経過はかなり複雑です。襲撃された直後、コールは「理解できない。私は抗議行動に参加したことはない。人種差別と戦う組織にも入っていない。なぜ、彼らが私を攻撃しなければならないのか?」とコメントしたのですが、NAACP(全米有色人種地位向上協議会) などの人種差別反対運動団体が、コールがもっと毅然とした態度を取るべきだと彼を批判したのです。その批判を受けて、コールは人種を隔離する会場での公演を拒否し、NAACPの終身会員となり、公民権運動に熱心に参加するようになりました。
おそらくコールは、才能と努力によって自らが得た名声と財産、地位にふさわしい場所に住む権利は当然のこととして自分にある、と思っていたのでしょう。そして、「アメリカという国の主流」に参加するだけの才能と名声が自分にはあるのだ、とも。しかしその考え方と行動が、人種差別主義者たちにとっては許しがたいことだと思われたのでした。

1956年、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」が大ヒットし、アメリカの、そして世界のポピュラー音楽界にはロックンロール旋風が吹き荒れます。60年代になるとビーチボーイズやビートルズなどのロックバンドが台頭して、フランク・シナトラやナット・キング・コールなど40年代から活躍していた歌手たちは、一挙に「旧世代」とみなされるようになりました。しかしコールは大人向けのエンターテイナーとして確固たる地位を築いていましたし、62年の「ランブリン・ローズ」(ヒットチャート2位)、63年の「暑い夏をぶっとばせ」(同6位)など、ヒットチャートの上位にランクインする曲もいくつかリリースしていました。もし彼がフランク・シナトラと同じぐらい長生きしていたら、世界中で敬愛され尊敬される大御所として、充実した晩年を過ごしていたに違いありません。しかし、運命は残酷です。1964年12月に、末期の肺がんが発見され、コールは治療を受けることになりました。彼はヘビースモーカーで、タバコ「クール」のメンソールを1日に3箱も吸い、喫煙が自分の声を魅力的にしている、と信じていたと言われています。
1965年2月15日、ナット・キング・コールはカリフォルニア州サンタモニカの病院で亡くなりました。45歳という若さでした。18日に行われた葬儀では、ロバート・ケネディ、フランク・シナトラ、サミー・デイヴィスJr. カウント・ベイシーなどが棺を担ぎ、ジャック・ベニーが弔辞を読みました。遺作は64年12月、入院直前に録音されたアルバム『L-O-V-E』でした。

ナットと二番目の妻マリア・エリントンの間に生まれた娘、ナタリー・コール(1950~2015年)は歌手として大成し、1991年に父の1951年のヒット曲「アンフォゲッタブル」に自分の声をかぶせて「親子の共演」を果たしました。この曲とアルバムは、1992年のグラミー賞で最優秀アルバム賞、最優秀楽曲賞など7部門を受賞しました。ナット・キング・コールは、死後にグラミー賞生涯功労賞(1990年)、サミー・カーン生涯功労賞(1992年)を受 け、ロックの殿堂(2000年)全米リズム&ブルースの殿堂入り(2020年)を果たしました。
コールが亡くなって60年近くが経過しましたが、21世紀も20年を過ぎた現在、彼の遺した素晴らしい曲と歌唱は、まったく色褪せていません。温かさと洒脱さ、聴く者の心にまっすぐ入ってくる誠実さ。どんな曲でも、まるで自分が作った曲のように心を込めて歌える希有な才能を持ったナット・キング・コールの輝きは、まさに永遠不滅です。

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