海外アーティストミッシェル・ポルナレフ
ミッシェル・ポルナレフ
商品名 ミッシェル・ポルナレフ/ポルナレフ・ベスト+ア・トキオ
発売日 2022年12月07日
商品コード MIUM-7115
JANコード 4571117356176
定価(税込) 1,980円
収録時間 74分03秒

フレンチ・ポップスの革命児

ミッシェル・ポルナレフ(1944年7月3日生まれ)は本国フランスだけでなく日本においても特別なポジションを築いたアーティストである。60年代初頭にフランスで沸き起こったイエイエ・ムーヴメントはシャンソン界に新風を吹き込んだ。メロディやリズムよりも言葉に重きを置く従来のシャンソンに退屈していた新世代の若者たちは米国産ロックンロールに影響を受けたビート・ミュージック=イエイエに夢中になった。プロのピアニストを目指して早くからパリ音楽院でクラシックを学んでいたポルナレフもロックンロールやR&B に感化されてドロップアウトし、ピアノやギターで弾き語りを始めた。そして66年に「ノンノン人形」でプロ・デビューし、またたく間にスターダムへと登りつめていった。
ポルナレフの何が新しかったのか? 彼は最初から英国人ミュージシャンたちを起用したロンドン録音にこだわり、アングロ=サクソン的8ビートを軸にサウンドを組み立てたが、一方で、19世紀ロマン主義の遺伝子を宿した美しいメロディやファルセットを多用したヴォーカルは常にフランスならではのエレガンスとエロティシズムを強烈に振りまいていた。疾風と憂愁。このアングロ=サクソンとフランスの絶妙な調和と昇華にこそポルナレフの音楽の清新さはあったのだと思う。ロックンロールを表面的になぞった、あるいは媚びたイエイエを一蹴してしまうような本物の才能の逞しさ、煌めきがそこにはあった。時同じくして世界を席巻したフラワー・ムーヴメントも、彼の斬新で直接的な言葉や中性的ルックスを後押しした。彼こそはまさに、時代が要請したフレンチ・ポップスの革命児であった。
そして、日本での人気は昔も今も格別だ。特に71年から73年頃にかけては凄まじく、ラジオで彼の曲がかからない日は一日たりともない状況だった。来日公演も4回(72年、73年、75年、79年)おこなっている。71年、中1の時にラジオから「シェリーに口づけ」が流れてきた瞬間に私の人生は変わったが、同様の体験をした日本人ファンは少なくないはずだ。2022年11月は初来日公演からちょうど50年だが、時代は変わっても、いつだって新しい風と光を運んでくる人、それがミッシェル・ポルナレフである。

プロフィール・楽曲解説
松山晋也(音楽評論家)


初CD化となる日本公演音源3曲を含む、初来日50周年記念ベスト!
70年代に「シェリーに口づけ」の大ヒットで颯爽と現れ日本の若者を虜にしたポップス界の貴公子、そのヒットの全て。


歌詞・楽曲解説付

収録内容


  1. シェリーに口づけ ※

    ポルナレフの代名詞とも言うべきこの名曲で彼を知り、ファンになった方も多いはず。特に日本では何度もCM やドラマで使用されるなど、お茶の間レヴェルで最も浸透したフレンチ・ポップスのひとつだ。本国では69年5月に「渚の想い出」のB面曲としてシングル発売。日本では同年9月に「可愛いシェリーのために」なる曲名でシングル発売された(「追わないで」=「渚の想い出」のB面)後、71年に「シェリーに口づけ」なる曲名で改めてシングル発売され、40万枚超の大ヒットとなった。永遠のマスターピースである。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  2. 愛の願い

    デビュー前の18才頃に作られた最初期の作品。2枚目のEP盤として66年6月に発売された後、同年11月の1stアルバム『Michel Polnareff』にも収録。華麗なピアノ演奏、優雅なアンサンブル、ロマンティックなメロディ、甘いファルセットと、ポルナレフの魅力と才能が凝縮されたこの名曲は、当時のポンピドゥー首相(後の大統領)からも「時代の流れだ。私は今日、新しい歌手の存在を知った」と称賛された。日本でも「シェリーに口づけ」に続くシングル曲として71年に大ヒット。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  3. 君との愛がすべて

    「愛の願い」と同じ3曲入りEP盤の曲(残り1曲は「侮辱」)で、同じく1stアルバムにも収録された。“ 君とやりたいんだ“と解釈できる歌詞の大胆な表現がわいせつ視され、発売当初、本国では放送禁止扱いとなったが、彼はこの曲の大ヒットによりスターの座を完全に確立した。歌詞にも音作りにも当時の英米フラワー・チルドレン的感覚が満ち溢れた清新なフォーク・ロックだ。69年に日本コロムビアからリリースされた1stアルバム『ゴールデン/ミシェル・ポルナレフ』での曲名は「ふたりの愛は」だった。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  4. 愛の休日

    72年6月発売のシングル曲(B 面は「つけぼくろ」)。日本では同時に出たコンピレイション盤『ポルナレフ・ナウ/ミッシェル・ポルナレフ4』に収録された後、10月にはシングル盤も発売された。日本でのポルナレフ人気の絶頂期を象徴する大ヒット曲であり、発売直後の11月には初来日公演がおこなわれた(以後79年までに計4回来日)。作詞は、映画の脚本家や小説家としても活躍していたジャン=ルー・ダバディ(後のサッカー日本代表トルシエ監督のアシスタントとして有名になったフローラン・ダバディの父親)

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  5. 哀しみの終わるとき

    同名フランス映画(監督:ナディーヌ・トランティニャン、主演:マルチェロ・マストロヤンニ、カトリーヌ・ドヌーヴ)の主題歌として71年10月リリースの6 曲入りサントラEP 盤に収録。これもジャン=ルー・ダバディの作詞だ。日本では72年初頭の映画公開に合わせて西郷輝彦がカヴァ・シングルをリリースした他、オフコースや天地真理もライヴで歌った。ポルナレフはこの他にも『La Folie DesGrandeurs( 大乱戦)』(71年)や『Lipstick』(76年)など計6本の映画でサントラを担当している。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  6. ロミオとジュリエットのように ※

    シングル盤B面曲(A面は「ギリシャにいるジョルジナへ」)として71年6月にリリースされた後、71年11月にはヒット曲を集めたベスト盤『Le Disque d’orDes Disques d’or No2』(前述の『ポルナレフ・ナウ/ミッシェル・ポルナレフ4』はこれを元にした日本独自選曲盤で、ジャケは同じ)にも収録された。オーケストレイション/指揮は、本作の直前にセルジュ・ゲンズブール『メロディ・ネルソンの物語』を手掛けるなど当代きっての鬼才編曲家として大活躍していたジャン=クロード・ヴァニエである。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  7. バラ色の心

    67年にシングルA面曲(B面は「男は涙を流さない」)として登場した後、68年7月発売の2ndアルバム『Volume 2』にも収録された。日本では「悲しみの舞踏会(=ラース家の舞踏会)」のB面曲としてまず69年2月に日本コロムビアからシングル盤が出た後、同年9月には『Volume 2』と曲順違い同内容の『バラ色の心/ミシェル・ポルナレフの世界』にも収録された。レイモン・ルフェーヴル楽団によるカヴァ(曲名は「Soul Coaxing」)の大ヒットにより欧米各国でポルナレフの名が広く知られるきっかけになった名曲だ。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  8. 悲しきマリー

    68年11月にリリースされた4曲入りEP盤(他は「愛の別離」「リンガディン」「おかしなジョー」)の収録曲。本国ではその後正規アルバムにもベスト盤などにも収録されることがなかった影の薄い作品だが、哀愁に満ちた素朴なメロディが多くのファンを魅了してきた隠れ名曲である。ドイツでは同年にシングル盤が発売され、日本でも74年10月にはシングル盤、11月には日本での未発売曲を集めた編集アルバム『ポルナコレクション』(A面1曲目)が発売された。本作の作詞も前述のジャン=ルー・ダバディだ。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  9. ノン・ノン人形

    記念すべきデビュー曲。ギターを手にしてまず憶えた3コードで作った最初期(二十歳頃)の作品である。これを1曲目に収録した4曲入りEPは、66年5月の発売から数ヶ月で20万枚近くの売り上げを記録した。日本でも同年9月にシングル盤がテイチクから発売された(これがポルナレフの日本初登場)。ロンドンでの録音には当時売れっ子セッションマンだったジミー・ペイジとジョン・ポール・ジョーンズ(後には共にレッド・ツェッペリン)も参加。スコット・マッケンジー他、世界中で多くのカヴァ・ヴァージョンを生んだ。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  10. 夜の鳥と一緒に

    66年11月発売のデビュー・アルバム『Michel Polnareff』及び3枚目のEP盤の収録曲。作詞は「ノンノン人形」や「愛の願い」と同じフランク・ジェラルド(フランソワーズ・アルディやシルヴィ・ヴァルタンなど60年代スターに作品を提供)。編曲のジャン・ブシェティは50年代から活躍していたジャズ・ベイシスト/作・編曲家で、このデビュー・アルバムでは英国の名編曲家チャールズ・ブラックウェルと共に編曲を分担した。ここでのギターはジミー・ペイジではなく、ペイジの師匠ビッグ・ジム・サリヴァンだ。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  11. リンガディン

    「悲しきマリー」と同じ、68年11月発売の4曲入りEP盤に収録。フランスでは3枚組ベスト盤『Les Premieres Annees』(97年)や2枚組ベスト盤『PassePresent』(2003年)などわずかな編集盤にしか入っていない。前述のドイツ盤シングル「悲しきマリー」のB面に、また日本編集盤『ポルナコレクション』にも収録された。作詞はジャン=ルー・ダバディが担当し、名匠ジャン・クロードリックによる繊細な技が際立つ音作り/曲調も似ているという点で、「悲しきマリー」の姉妹作と言っていいだろう。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  12. ステキなランデヴー

    69年11月リリースのシングルA面曲(B面は「想い出のシンフォニー」)。これら2曲は同時期に出たベスト盤『Le Disque d’or Des Disques d’or』にも収録された。日本では前述のコンピ盤『ポルナレフ・ナウ/ミッシェル・ポルナレフ4』(72年6月)で初お目見え。ここでは作詞・作曲だけでなく編曲もポルナレフ本人が担当している。50~60年代アメリカン・ポップス風の曲調+スウィングル・シンガーズ的な複雑にして洒脱な多重録音コーラスは80年代の山下達郎を想起させたりもする。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  13. 天国への道

    72年10月に発売されたシングルのA 面曲(B 面は「ジョブ」)。“シスターも泥棒も人殺しも、聖者も淑女も売春婦も、みんな天国に行く…”という親鸞(浄土真宗)的な歌詞はジャン=ルー・ダバディによるものだが、異端児ポルナレフにぴったり。このシングル盤2 曲は同時期(10月6日~22日)にパリのオランピア劇場でセンセイションを巻き起こした連続コンサート《Polnarevolution》で披露され、翌11月に出たそのライヴ盤『Polnarevolution』(日本盤『熱狂のオランピア』は74年4月発売)にも収録された。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  14. 愛のコレクション

    71年1月リリースのシングルA面曲(B面は「愛の物語」)で、同時発売の3rdアルバム『Polnareff’s』にも収録。日本では同アルバムが72年2月に『ポルナレフの世界/ミッシェル・ポルナレフ3』というタイトルで発売され、更に4月にはシングル曲(B面は「神父さまの結婚式」)としてもリリースされた。ポルナレフと共に編曲を担当したビル・シェパードはオーケストレイションの名手として50年代から活躍していた英国人で、とりわけビー・ジーズのロマンティックな初期作品群における仕事が有名だ。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  15. つけぼくろ

    「愛の休日」のB面曲として72年6月にシングル発売された後は同年のライヴ盤『Polnarevolution』で聴けるだけだったが、90年代以降は各種ベスト盤にしばしば収録されるなど、隠れた人気曲である。ワイルド&アヴァンギャルドな編曲(たぶん冒頭のヴァイオリン演奏も)を担当したのは、70年代初頭から今日までマルチプレイヤー/編曲家としてロックから映画音楽まで幅広く活躍してきた英国人グレアム・プレスケット。サエキけんぞうも日本語でカヴァしている(2003年のアルバム『スシ頭の男』に収録)。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  16. ラース家の舞踏会

    68年2月発売の4曲入りEP盤やシングル盤で発表した後、同年7月のアルバム『Volume 2』にも収録。パイプオルガンの荘厳な響きが伝奇ロマン風の歌を盛り立てる、これもファンの根強い人気を誇る曲だ。日本では「バラ色の心」のA面曲として69年2月にシングル盤がリリースされ、更に同年9月発売の『バラ色の心/ミシェル・ポルナレフの世界』(=『Volume 2』)にも収録されたが、その際の邦題は「悲しみの舞踏会」だった。ちなみに『Volume 2』は、69年にアカデミー・シャルル・クロ大賞を獲得している。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  17. 愛の物語

    「愛のコレクション」のB面曲として71年1月にシングル盤リリース。これら2曲が収録された『Polnareff's』は、ヒット・メイカーとしての評価を確立したポルナレフがより高い次元へと自身を押し上げた革新的アルバムとして知られる。セールスはダウンしたが、作品全体の芸術性とトータリティは全キャリアを通じて最高だろう。その立て役者が、本曲など計4曲で編曲を担当したアンソニー・キング(ライブラリー・ミュージックで有名な英国人音楽家)と前述のビル・シェパード(計4曲を担当)だった。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  18. 今夜の列車

    70年3月発売のシングル盤A面曲(B面は「アベク・ニニ」)。「リンガディン」や「天国への道」同様、近年の各種ベスト盤には収録されるようになったが、それまでは忘れ去られていた隠れ名曲である。70年のオリジナル・シングル盤の黄色いジャケットは71年にソニーから出た「シェリーに口づけ」のシングル盤で流用されていたのだが、肝心の音源の日本初登場は、なんと2004年の『ポルナレフ・ベスト』への収録時だった。作詞はジャン=ルー・ダバディ、オーケストレイションは前述のアンソニー・キング。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  19. 哀しみのエトランゼ

    米国への移住後の77年7月に出たシングルA面曲(B面は「僕のマドモアゼル」)。日本でも翌8月に同内容で発売された。その後、96年発売のライヴ盤『Live At The Roxy』で歌われ、78年のアルバム『美しきロマンの復活』が96年にCD化された際にもボーナス・トラックとして追加収録された。共同プロデューサーのデイヴィッド・ヘンツェルは70年代初頭からジェネシスやルネッサンス等のプログレ系作品を手掛けてきた英国人エンジニア/プロデューサー。母国への思慕の情に満ちた哀愁のサウンドと歌声である。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  20. (ボーナストラック

    最後の3曲は72年の初来日公演2日目(11月20日の東京厚生年金会館大ホール)の音源を収めたライヴ盤『ポルナレフ・ア・トーキョー Polnareff ATokio』(73年5月発売)から。この日本独自企画盤は長らく日本以外では入手困難だったが、彼のほぼすべての音源(全430曲)を集めたCD23枚組ボックス『Pop Rock en Stock』(2017年)に遂に収録されたため、現在は日本以外のファンも聴ける。
    3曲とも内容に関しては既述したので、以下、この初来日時のエピソードをオリジナル・アルバムのライナーノートや当時の担当ディレクター高久光雄氏から直接伺った話から抜粋して紹介しておこう。11月15日に羽田に降り立ったポルナレフは17日、18日にヤマハ主催の第3回世界歌謡祭(日本武道館)にゲスト出演(これが日本での初ステージ)した後、19日(東京郵便貯金ホール)と20日(東京厚生年金会館)に本公演をおこなった。両日ともオープニング曲は「ラース家の舞踏会」で、計15曲を演奏。バッキングを務めたディナスティ・クリジスはフランスのプログレ系ロック・バンド(1968~74年)で、メンバーはジャック・メルシェ(ギター)、フィリップ・ロメ(キーボード)、ジャッキー・シャラール(ベイス)、ギーザ・フェンツル(ドラムス)の4人。スタジオ録音アルバムが2枚、ライヴ盤が1枚あり、73年には日本でも独自編集盤が発売された。彼らは73年6月の2度目のポルナレフ来日公演にも帯同した。ちなみに3度目の来日公演(75年6~7月)でバックを務めたのは英国のロック・バンド、ウォーリーだ。
    70年頃から空手(極真会館)を習うなど日本の伝統文化にも強い興味を持っていたポルナレフは、本公演2日目(20日)には極真会館総帥・大山倍達を訪問した後、日本刀(菊一文字)や陣羽織を買い込み、その勢いのままコンサート会場に入ったという。21日には再び大山倍達と築地で寿司を食した後、山王日枝神社周辺で写真撮影をおこない、帰途についた。この時撮られた、赤坂見附の道路の真ん中に座り込んだ写真は、翌73年11月に日本先行発売されたニュー・アルバム『ポルナレフ革命』のフランス盤(74年6月発売の『Polnareve』。日本盤とは曲順違いの同内容)の裏ジャケットで大きく使われている。

    【解説】松山晋也(音楽評論家)

  21. 愛の願い(Live)
  22. 愛の休日(Live)
  23. 哀しみの終わるとき(Live)
※MONO
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