海外アーティスト | ジリオラ・チンクェッティ/ヴェリー・ベスト・オブ・ジリオラ・チンクェッティ |
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商品名 | ジリオラ・チンクェッティ/ヴェリー・ベスト・オブ・ジリオラ・チンクェッティ |
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発売日 | 2012年07月04日 |
商品コード | MIWM-5002 |
JANコード | 4571117353045 |
定価(税込) | 2,409円 |
収録時間 | 70分22秒 |
カンツォーネの妖精の日本国内で親しまれたシングル楽曲を集めた決定版コレクション!!
解説・歌詞・対訳付
収録内容
※一部マスター・テープに起因するノイズや歪みなどが生じる場合があります。予めご了承下さい。
片山 伸
本作『ヴェリー・ベスト・オブ・ジリオラチンクエッティ』は、日本で発売された数多くのシングル盤の中から、これぞ代表曲と呼べるものばかり22曲が収録されています。内外のヒット曲を網羅しているうえ、全てが国内の発表順に並べられていますので、彼女の活動の大まかな流れが掴めるようになっているのが特徴です。
オーラの愛称で親しまれているジリオラ・チンクェッティは、1947年12月20日に北イタリアのヴェネト州に位置する、あの『ロミオとジュリエット』の舞台になった街として有名なヴェローナで生まれました。建築家の父ルイージと、アップルパイを得意料理とする母サラのあいだに生まれ、20ヶ月年上の姉ローザビアンカ(通 称ロッビ)がいます。5歳の時、子供の演劇で聖母マリアの役を演じ、はじめて人前に出る経験をしました。もともと歌うことが大好きだったというジリオラでしたが、やがて両親の薦めでピアノを習いはじめ、また音楽家のマエストロ・ラヴァッツィーニに付いて本格的に歌の勉強をはじめています。そして1959年にリストーリ劇場で行われた子供のミュージカル・コンテストに出場し、後にビートロック・シーンで活躍することになる男性歌手ディーノとともに優勝を分かち合いました。その結果、ジリオラは地元の劇団のバラエティショウにレギュラー出演して歌うことになります。しかし当時の子供たちは皆テレビに出ることを夢みており、やがてその夢が高じて1963年のカストロカーロ新人コンテストに出場できるように両親に懇願したのです。ジリオラはこの年のサンレモ音楽祭入賞曲である「水の上」を歌い、4000組もの出場者の中から見事優勝をかちとり、大手CGDレコードと契約を結ぶことに成功し、また翌年のサンレモ音楽祭への出場権を獲得しました。彼女のサクセスストーリーは、ここからはじまったのです。
1963年12月、ジリオラは「瞳にいっぱいの涙(Penso Alle Cose Perdute)」でデビューしました。この曲はイタリア国内のヒットパレードで35位まで上がり、新人歌手としては好成績で幸先の良いデビューだったといえます。しかしなんといっても、彼女の人気を決定づけたのは翌64年1月末に開催された第14回サンレモ音楽祭に出場して優勝したことにつきます。この年のサンレモ音楽祭は合計48組の歌手が出場し、24曲のエントリー曲を2組ずつが歌って競い、それらの中から最も優秀な1曲を決めるというものでした。また、イタリア国外の歌手がエントリーされるようになった1回目の大会でもあります。ジリオラは「夢見る想い」を歌い見事優勝を果たしましたが、その時彼女はまだ16歳と43日という若さであり、歴代で最も若い優勝者として今もその記録は破られていません。ちなみに同曲を歌ったもう1組は、イタリア生まれのベルギー移民であるパトリシア・カルリがフランス代表の歌手として参加していました。
夢の大舞台でのいきなりの優勝はジリオラ本人も想像すらしていなかったようで、その時の模様を後にこのように語っています。「サンレモ音楽祭ではたくさんの有名な外国の歌手の人たちに会えたし、尊敬するミーナにも会えたことが嬉しかった。私は自分の順番を待っているあいだは唇が震えていたけれど、ステージの上に立った時には落ちついて歌うことができました。でもステージを降りた瞬間には泣いてしまいました。みんなは慰めるように私がきっと優勝するに違いないといってくれたけど、私自身はそれを全く信じていませんでした。そして楽屋で優勝したという結果を聞いた時、私は一瞬気を失ってしまい、パートナーのパトリシアは飛び上がって自分のテープレコーダーを壊してしまいました。その後はずっとめまいがしたままで、自分の幸せを抑制することができなくなっていました...」16歳の少女らしい素直な気持ちと、些細なことでも動揺してしまう繊細さがわかります。ジリオラは一夜にして夢をつかみとり、多くの視聴者たちは一夜にしてジリオラに心をつかまれたのです。
「夢見る想い」は当時の日本でも早々に紹介され、4月にレコードが発売されました。あのビートルズが日本デビューしたのが同じ年の2月ということですから、海外のポピュラー・ソング全盛期の真っ只中にジリオラのヒット曲も一緒に流れていたわけです。日本におけるカンツォーネのブームは1963年頃からはじまったといわれていますが、その片翼を担ったのは間違いなジリオラだったといえるでしょう。
輝かしいデビューを飾ったあと、ジリオラは休む間もなく走り続けます。まずは同64年3月21日にコペンハーゲンで行われた第9回ユーロビジョン・ソング・コンテストに出場し「夢見る想い」でイタリア勢として初の優勝を飾り、ヨーロッパ中でも400万枚を売る大ヒットとなりました。そして翌65年のサンレモ音楽祭に出場し、コニー・フランシスとともに「あこがれはいつも心に」を歌い入賞しています。この年の5月にジリオラは初来日を果たし、ベテラン歌手のルチアーノ・タヨーリとともに東京、京都、大阪、小倉をまわりました。
ジリオラの最初のピークといえるのが、1966年のサンレモ音楽祭で「愛は限りなく」を歌い2度目の優勝をかちとったことでしょう。「夢見る想い」では、16歳という年齢に等しい初々しさやあどけなさが注目されましたが、18歳になった彼女は大人の女性へと成長し、作曲者でありパートナーとして出場したドメニコ・モドゥーニョに負けないくらい堂々と歌い上げることができました。この曲のヒットがきっかけとなって映画『愛は限りなく』が制作され、ジリオラは初めて主役を演じました。翌67年には4月からはじまった視聴者リクエストコンテスト“夏のディスク・フェスティヴァル”に「ローザ・ネーラ」で参加し、見事2位に選出されました。1968年のサンレモ音楽祭に4度目の出場を果たし、「夕べのしあわせ(Sera)」を歌い8位に入賞しています。5度目の出場となる1969年のサンレモ音楽祭では「雨」を歌い6位に入賞しました。当時日本ではすでにカンツォーネ人気、ジリオラ人気は爆発しており、この曲は日本のオリコンチャートに初めてランクインし35万枚を売る大ヒットとなりました。
1970年はジリオラにとっては多忙をきわめた年でした。まず年頭のサンレモ音楽祭に「ロマンティコ・ブルース」で出場し6位に入賞し、その後フェスティヴァルバール(音楽祭)に「愛はひととき(Solo Un Momento D'amore)」で出場、ヴェネツィア音楽祭に「コンドルは飛んで行く」で出場、カンツォニッシマ (音楽祭) に「日 曜はミサに (La Domenica Andando Alla Messa)」で出場、そして日本の万国博覧会で開催された『サンレモ音楽祭 Expo'70』にセルジョ・エンドリゴやジャンニ・ナザ ーロ、マリーザ・サンニアらと共に参加し、さらには彼女にとって初のロマンス (相手 は23歳の学生) が報じられるなど、 公私 ともに大忙しだったようです。また、この年の秋に日本で発売された「つばめのよう「に」がオリコンで14位まで上がり、10万枚を超えるヒットとなったことも忘れてはなりません。
1971年のサンレモ音楽祭には「薔薇のことづけ」で出場し9位に入賞します。またフェスティヴァルバールとヴェネツィア音楽祭に「風によせて」で出場し、カンツオニッシマに「涙の小道(Qui Comando Io)」で参加しました。続く72年もサンレモ音楽祭に「恋よまわれ」で出場しました。この曲は当初歌詞の中身が検閲を受けるというアクシデントがあったものの、無事9位に入賞することができました。秋には3度目の来日公演が実現、ジャンニ・モランディとの共演でも話題となり、この模様は後にライヴ盤『リサイタル・イン・ジャパ ン』として発売されました。
1973年に「ふしぎな気持ち(Mistero)」で9度目となるサンレモ音楽祭出場を果たしますが、初めて決勝進出を逃し、これまでほぼ毎年のように出場していたサンレモへの参加を翌年から辞退します。そのかわり、暮れに行われたカンツォニッシマにおいて「太陽のとびら」が見事優勝し、雪辱を果たしました。また、翌74年にはユーロビジョン・ソング・コンテストに10年ぶりに出場し、「夢はめぐり来て」を歌い2位に入賞しています。1975年には待望となる4度目の来日公演が行われました が、1976年から翌77年にかけてはいくつかのTVショウで活躍する以外、年に1枚程度のシングル発売と、ビッグ・バンドと共演したアルバム『ジリオラの忘れな草』を作った程度にとどまります。
ようやくジリオラが元気な姿を見せてくれたのは、1978年のサンレモ音楽祭からでした。この大会にはゲスト出演というものでしたが、アルバムも作り、5度目の来日公演が実現するなど健在ぶりをアピールしました。そして翌79年には結婚を発表し、一時的に歌手活動を停止します(その間も若干ですが、芸能レポーターとしてTVに出演し、歌も披露していました)。
再びジリオラが音楽シーンに復帰したのは、1982年のアルバム『Portoballo』を発表してからです。この作品はジャズ・スタンダードとラテン音楽がミックスされた特殊な内容でしたが、業界の評判は良く、ジリオラの完全復帰を後押しするかたちとな りました。そして1985年、サンレモ音楽祭に「愛と呼ぶの (Chiamalo Amore)」で12年ぶりに出場し見事3位に入賞します。また1989年のサンレモ音楽祭に「チャオ (Ciao)」で出場し、3月には日本でサンレモ音楽祭ワールド・ツアーが開かれ来日しました。1991年にはアルバム『Tuttintorno』を制作、このアルバムを引っさげて1993年6月に7度目の来日公演が行われました。そしてこの時の模様はライヴ盤『ライヴ・イン東京'93』と題したCDが発売されました。1995年には12回目となるサンレモ音楽祭出場を果たし、「Giovane Vecchio Cuore」を歌いました。ジリオラはその後も歌手としての活動を続け、自身のヒット曲を最新の楽器で再録音したセルフ・カヴァー・ベスト盤やオリジナル作品など、ゆるやかながらも音楽活動を続けています。日本に対してもずっと愛する気持ちをもち続けているようですので、いつかまた彼女の歌がここ日本で聴ける日がやってくるかもしれません。