国内アーティスト | 弘田三枝子/永遠のベスト・ヒットセレクション~人形の家~ |
---|
商品名 | 島弘田三枝子/永遠のベスト・ヒットセレクション~人形の家~ |
---|---|
発売日 | 2023年07月19日 |
商品コード | MICO-3163 |
JANコード | 4571117356497 |
定価(税込) | 2,200円 |
収録時間 | 61分56秒 |
デビュー当時のパンチの効いた曲から、「人形の家」「燃える手」などのヒット曲まで、あの歌声が甦る、永遠のベスト・アルバム。
歌詞カード・解説[衛藤邦夫(日本コロムビア)]付き
*MONO
収録内容
弘田のデビュー曲で、オリジナルはイギリスの歌手ヘレン・シャピロ。弘田のパンチのあるボーカルで 大ヒット。 訳詩の漣健児は、以後弘田の多くの作品を手がけた。
[1961年11月発売 / JP-5089]
DON'T TREAT ME LIKE A CHILD
訳詞:漣健児 作詩・作曲: M. Hawker-J. F. Schroeder 編曲:岩井直溥
コニー・フランシスのカバーで、弘田はこの曲で 『NHK紅白歌合戦』に初出場した。 今でも歌い継が れている夏ソングの定番で、弘田の代表曲の一つ。
[1962年10月発売/JP-5161]
VACATION
訳詞:漣健児 作詩・作曲: H. Hunter-C. Francis-G. Weston-H. Temkin 編曲:大沢保郎
弘田の2枚目のシングルでニール・セダカのカバー。 訳詩は漣健児。
[1962年2月発売/JP-5100]
HAPPY BIRTHDAY SWEET SIXTEEN
訳詞:漣健児 作詩・作曲:N. Sedaka-H. Greenfield 編曲:岩井直溥
「ヴァケーション」と同じコニー・フランシスのカバー。弘田のシングル盤は1963年に発売されたが、本CDではステレオによる再録音バージョンを収録。
[1968年2月10日発売/JDX-10 (アルバム「ポップス・デラックスシリーズ』より) オリジナル盤1963年3月発売]
I'M GONNA BE WARM THIS WINTER
訳詞:漣健児 作詩・作曲: M. Barkan-H. Hunter 編曲:山木幸三郎
コロムビア移籍第一弾として「はじめての恋人」のB面に収録されたが、こちらが大ヒットした。オリジナルはミーナ。
[1964年12月20日発売 / SAS-432]
UN BUCO NELLA SABBIA
訳詞:漣健児 作詩・作曲:A. Testa-P.Soffici 編曲:山屋 清
デビュー曲「子供ぢゃないの」のB面に収録され両面とも大ヒットした。オリジナルはヘレン・シャピロ。弘田のシングル盤は1961年に発売されたが、本CDにはステレオによる再録音バージョンを収録。ちょっぴり大人になった弘田の歌唱で楽しめる。
[1970年10月10日発売 / PSS-10029/30-J(アルバム「ポピュラー・ヒット25年史(下巻)」より)オリジナル盤1961年11月発売]
YOU DON'T KNOW
訳詞:漣健児 作詩・作曲:M. Hawker-J. F. Schroeder 編曲:森岡賢一郎
フィルスペクターのプロデュースでザ・ロ ネッツがリリース、「ビー・マイ・ベイビー」の曲名でも知られる。 弘田のシングル盤は1963年に発売されたが、本CDには再録音されたステレオバージョンを収録。弘田による歌唱とコーラスの多重録音が興味深い。
[1968年2月10日発売/JDX-10(アルバム「ポップス デラックスシリーズ』より)オリジナル盤1963年12月発売]
BE MY BABY
訳詞:漣健児 作詩・作曲:P. Spector-J. Barry-E. Greenwich 編曲:山木幸三郎
オリジナルはフランス・ギャルで、ゲンスブールが作詩・作曲した。日本でも多くの歌手の競作でレコードが発売されたが、弘田は岩谷時子の訳詩で歌っている。今でも人気の高いスタンダード曲。
[1965年8月10日発売/JPS-11]
POUPÉE DE CIRE, POUPÉE DE SON
訳詩:岩谷時子 作詩・作曲: S. Gainsbourg 編曲:大西 修
まだ新人作曲家だった筒美京平の初ヒットで、この年の『NHK紅白歌合戦』で歌唱した。後に大ヒットメーカーとなる筒美の作品が紅白で初めて披露されたのがこの作品。作詩家橋本淳とのコンビで5枚のシングル盤が連続リリースされた。
[1967年7月10日発売/P-1]
作詩:橋本淳 作・編曲:筒美京平
「渚のうわさ」「枯葉のうわさ」に続く“うわさシリーズ” として「春風のうわさ」がレコーディングされたが、完成度の高いこの作品に差し替えられたという。橋本淳作詩のドライヴ作品は、その後の平山三紀「真夏の出来事」につながる。
[1968年3月15日発売/P-10]
作詩:橋本 淳 作・編曲:筒美京平
橋本・筒美コンビの5枚連続でリリースしたシングル盤のラストで、弘田が新たな歌唱法でレコーディングに臨んだモータウン風歌謡の名作。当時のアレンジは今でも色褪せない。
[1968年9月15日発売/P-37]
作詩:橋本 淳 作・編曲:筒美京平
「人形の家」のなかにし礼と4作ぶりの筒美京平による作品で、同時期のコロムビアでは、同じ作家コンビによる「あなたならどうする」(いしだあゆみ)が大ヒット。
[1970年4月25日発売/P-89]
作詩:なかにし礼 作・編曲:筒美京平
当初、別のアレンジでレコーディングされロダンのた音源は未発売になり、よりスリリングにブラッシュアップして再レコーディングされた音源が発売された。『NHK紅白歌合戦』では最新の外国ブランドを身にまといエレガントに歌唱した。当時はファッションリーダーとしても定評があった。
[1970年8月25日発売/P-97]
作詩:なかにし礼 作・編曲:川口 真
「人形の家」に続きヒット音楽チャートの最高位5位を記録した。年末に発売され正月にかけてヒットしたが、レコード店からは正月から「死んだら」とはどうなの?と疑問が寄せられたという。レコードジャケットは当初もう少しセクシーな写真が使われたが、弘田の母親からのクレームで差し替えられたという逸話も。
[1969年12月10日発売/P-79]
作詩:なかにし礼 作・編曲:川口 真
「燃える手」のB面。いじらしい女心を切々と歌ったスローバラードの名曲。
[1970年4月25日発売/P-89]
作詩:なかにし礼 作・編曲:筒美京平
ヤマハ音楽振興会主催の「第1回東京国際歌謡音楽祭」(第2回より「世界歌謡祭」に名称変更) 参加作品で、弘田は歌唱賞を受賞した。
[1970年12月15日発売/P-108]
作詩:我谷和夫 作曲:佐藤健 編曲:服部克久
なかにしの作詩は「ロダンの肖像」以降4年ぶりで、最後の作品となった。弘田ファンには根強い人気曲となっている。
[1974年4月1日発売/P-339]
作詩:なかにし礼 作・編曲:馬飼野康二
「歌謡曲を歌いたい」という弘田のリクエストで実現した企画。作詩家の森雪之丞との組み合わせは初めて。この作品が弘田生涯最後のシングルとなった。
[2015年10月21日発売/COCA-17059]
作詩:森雪之丞 作曲:合田道人 編曲:北島直樹
はじめはフランス語の作品だったが、ミーナがイタリア語で歌い大ヒットした。日本ではシャンソンの名曲としても知られており、越路吹雪や岸洋子も歌っている。
[1965年11月25日発売/JPS-27]
UN ANNO D'AMORE
訳詞:漣健児 作詩・作曲: N. Ferrer-G. Verlor 編曲:山屋 清
レコーディングの時に作詩家のなかにし礼から「この曲で弘田三枝子は女になる」といわれ、予見は的中し弘田の代表曲となった。音楽チャート1位を記録、「日本レコード大賞』の歌唱賞を受賞し、『NHK紅白歌合戦』にも1年ぶりにカムバックした。
[1969年7月1日発売/P-65]
作詩:なかにし礼 作・編曲:川口 真
1947年2月5日~2020年7月21日
東京都世田谷区出身。小学生の頃から米軍キャンプで歌い、1961年11月東芝レコード(現:ユニバーサルミュージッ ク) から「子供ぢゃないの」でレコードデビュー。その後、「ヴァケーション」「想い出の冬休み」「悲しきハート」「私のベイビー」などのヒット曲を連発、 そのダイナミックな歌唱と健康なイメージから“パンチのミコちゃん”とよばれて人気爆発。 1962年『NHK紅白歌合戦』に「ヴァケーション」で初出場、以後22回まで計8回出場する。週に10本以上のテレビのレギュラー番組を持つ程の国民的な人気者に成長した。 1964年コロムビア移籍第一弾の「砂に消えた涙」が大ヒット。1965年日本人歌手としては初めて18歳で『ニューポート・ジャズ・フェスティバル』に出演。アニメ『ジャングル大帝』のテーマ「レオのうた」を発売するなど多彩なジャンルで活躍。
1966年ニューヨークでレコーディングされたアルバム『ニューヨークのミコ』を発売。 1969年イメージチェンジして発売した「人形の家」は、ミリオンセラーを記録し『日本レコード大賞』歌唱賞受賞。自身のダイエット経験を綴った「ミコのカロリーブック」が150万部の大ベストセラーとなり、ダイエットブームの先駆者となる。直木賞作家、高橋克彦氏や桑田佳祐氏らが弘田のファンを公言し、桑田は1983年 に発売されたサザンオールスターズのアルバム『綺麗』に、弘田をテーマにした「MICO」という作品を収録している。2015年デビュー5周年記念曲「悲しい恋をしてきたの」を発売。 これが最後のシングルとなった。 デビュー当時から、いち早く海外の音楽を自分流に昇華させたパフォーマンスは日本の音楽界に新風を送り込み、その後デビューしたミュージシャン達に大きな影響を与えJ-POPの誕生に大きく寄与した。生涯歌手活動を続けたが2020年7月21日に73歳で逝去。