国内アーティストフランク永井/もっとフランク!~ベスト・オブ・フランク永井
フランク永井/もっとフランク!~ベスト・オブ・フランク永井
商品名 フランク永井/もっとフランク!~ベスト・オブ・フランク永井
発売日 2015年03月25日
商品コード MIVE-3067
JANコード 4571117354097
定価(税込) 2,420円
収録時間 65分48秒

魅惑の低音で今なお多くのファンを魅了する『フランク永井』の最新ベスト盤!!「有楽町で逢いましょう」「東京ナイト・クラブ」「君恋し」をはじめ、ムード歌謡名曲を収録。
歌詞カードには各曲解説や当時のシングル・ジャケットなども掲載、永久保存盤ベストです。


歌詞カード・楽曲解説(矢萩光也)付


収録内容


  1. 東京午前三時(MONO)

    1957年3月発売

    この曲が出た昭和32年といえばまだまだ戦争の荒廃が残る東京。それでも首都の東京には眠らない姿がある。マンボ「ハバナ午前三時」にちなみ、時代を俯瞰することに巧みな佐伯孝夫が描いた。都会のいやしの創造を望む吉田正がメロディーを添える。ビブラフォンが初めて演奏に加わり、不夜東京の午前三時の息づかいが伝わる名作品。(昭和32年第8回<初出場 >昭和51年第27回、昭和54年第30回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  2. 夜霧の第二国道(MONO)

    1957年10月発売

    自動車修理工にでもなろうかと冗談を飛ばしていたフランク永井は有名な車好き。吉田正も宮川哲夫も彼が運転する中古のスポーツカーで、実際に五反田から横浜(第二京浜)を走って作った。恋の傷心を断ち切るように霧の夜の国道を突っ走るという宮川の詞が印象深い。第二京浜は当時の国道一号線の特定箇所なのだが、関西では第二阪神国道(国道43号)を連想して親しまれた。

    【解説】矢萩光也

  3. 羽田発7時50分(MONO)

    1957年11月発売

    ジャズから流行歌に転向したフランク永井は昭和32年に15曲発表した。東京の夜、大人の恋と別れをみごとに歌い上げるクルーナーとして「魅力の低音」を決定的にしていった。国内線の最終便を曲名に、あらわれぬ恋人を待つ男心の哀れをみごとに描く。宮川哲夫の詞に豊田一雄がメロディーをつけた。(昭和46年第22回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  4. 有楽町で逢いましょう(MONO)

    1957年11月発売

    フランク永井をいちやくスターに押し上げた名曲。そごうデパートの東京進出をレコード、「平凡」連載映画、TV番組とさまざまなメディア連携で展開した。洋画「ラ スベガスで逢いましょう」から曲名がひらめいた佐伯孝夫の着想と、自宅の屋根をたたく雨音にヒントを得たイントロ。無名のフランク永井を強く推した吉田正の先見があ たった。その後、有楽町に複合ショッピング街「イトシア」などが進出し、今もにぎわいを見せている。(昭和48年第24回、昭和57年第33回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  5. 公園の手品師(MONO)

    1958年2月発売

    大阪朝日放送ホームソングで昭和31年11月に歌った。反響が大きく例外でさらに半月延長したという名曲。元は鶴田浩二が映画「男性No.1」で前年に歌ったもの。レコードの発売は昭和33年で「たそがれ酒場」のB面。昭和53年にも新たな吹込みで再販された。宮川哲夫作詞。銀杏の葉舞い落ちる情景は時代をまったく感じさせない永遠の名曲といえる。(昭和53年第29回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  6. 西銀座駅前(MONO)

    1958年4月発売

    佐伯孝夫作詞、吉田正作曲、寺岡真三編曲という最強ユニットが、ありえそうにない非日常をフランク永井に歌わせた。フランクはこれを大胆にそして嫌味なくさらりと歌って見せた。今日に至るまでこの曲を歌いこなし、聴かせる歌手はまだいない。地下鉄「西銀座駅」は昭和32年に丸ノ内線の駅として開業。しかし昭和39年、日比谷線銀座駅の開業に伴って、銀座線丸ノ内線日比谷線の3線が改札内で接続されたことにより「銀座駅」に改称された。(昭和33年第9回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  7. こいさんのラブ・コール(MONO)

    1958年7月発売

    昭和33年に大阪朝日放送ホームソングで流されてすぐにレコードが発売された。ABC放送管弦楽団の演奏。フランク永井のソフトな歌唱は当時積極的に歌謡曲の公演を取り組んでいた大阪労音で歓迎された。後に関西ものといわれる情緒がただよう多くのヒット曲の道を切り開いた。地元大阪の石浜恒夫作詞、大野正雄作曲作品。

    【解説】矢萩光也

  8. 夜霧に消えたチャコ(MONO)

    1959年3月発売

    「冷いキッス」「俺は淋しいんだ」のヒットを書いた沖縄奄美出身の渡久地政信作曲の作品。作詞宮川哲夫。レコーディングのときに感無量になり、思わずうずくまってしまったフランク永井。渡久地がこの曲にこめた「相求めても相容れられない現実を知るときに人生の孤独を知った」男の心情を魂で歌いあげた。昭和34年日本レコード大賞歌唱賞作曲賞で評価された。

    【解説】矢萩光也

  9. 東京ナイト・クラブ(唄:フランク永井・松尾和子)(MONO)

    1959年7月発売

    フランク永井が赤坂にある力道山の経営するクラブ・リキで見出した盟友松尾和子とのゴールデンデュエット曲。松尾が和田弘とマヒナスターズのコーラスで歌った豪華なデビュー曲「グッド・ナイト」のB面で発表した曲。発売とともに大人のムードで全国を席巻し、後にデュエットカラオケの定番になった。吉田、佐伯コンビの先見性がわかる。

    【解説】矢萩光也

  10. 好き好き好き(MONO)

    1959年11月発売

    明るくはずむフランク永井の歌声。いちど耳にすると頭に残り、いつまでもグルグルと繰り返す。しゃれたセンスとテンポのいいこんな曲をあみだしたのは、フランク永井に最も多くの曲を提供した作詞佐伯孝夫、作曲吉田正だ。フランク永井の変幻自在な歌唱の豊かさを引き出し、その魅力を十分に訴えた一曲。

    【解説】矢萩光也

  11. 東京カチート(MONO)

    1960年10月発売

    東京の若者の恋への憧れと不安をコーラスをバックに軽快に歌う。ラテンの名曲「カチート」からイメージを膨らませて佐伯孝夫が独特の世界を描いた。それに吉田正はジャズできたえたフランク永井のスィングを光らせるメロディーをつけた。「カチート」を、聴く人は思い思いにイメージをふくらませて解釈した。(昭和35年第11回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  12. 君恋し(MONO)

    1961年7月発売

    編曲の名人寺岡真三のすぐれたセンスと技量が実を結んだ。息の長い名曲だけに多くの著名歌手がカバーに挑戦しているが(オリジナルは二村定一)、寺岡の編曲とそれに応えたフランク永井のフレッシュさを超すものはいない。「カバーは賞の対象にしない」という日本レコード大賞が授与され(昭和36年)、フランク永井の人気を不動のものにした。(昭和36年第12回、昭和44年第20回、昭和47年第23回、昭和50年第26回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  13. 霧子のタンゴ(MONO)

    1962年10月発売

    意外や恩師吉田正が作詞を手がけた最初の作品。落葉散る秋と女性の甘さと愁いを吉田正は、霧子という哀感ある女性名をもつタンゴメロディーにした。決して歌い手に妥協することがなかった吉田がフランク永井につきつけた挑戦曲。フランクはこのフラットな歌詞をみごとな感情表現で歌いあげた。台湾公演時にフランク永井は自ら英語歌詞をつくり披露している。(昭和37年第13回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  14. 大阪ぐらし

    1964年6月発売

    三拍子のメロディーがよく情緒をかもしだしている。織田作之助をはじめ川端康成、司馬遼太郎の周囲で活躍しまた石浜の詞が「こいさんのラブコール」に続いて、大野正雄とのコンビで挑戦した作品。関西の根強いフランクファンだけでなく、フランク永井が歌う情緒たっぷりの甘い夢に全国が聴きほれた。(昭和39年第15回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  15. 大阪ろまん

    1966年11月発売

    石浜の独特に描き出す大阪の詞に、フランク永井の恩師吉田正がさすがの曲を添えた。やわらかな関西弁でさまざまに挿入されたキーワードが、大阪のもつユニークな世界を広げてやまない。ソフトで甘いフランク永井の声と歌い方が関西の歌に妙にマッチする。吉田のメロディーに石浜の詞は堂島、文楽人形、道頓堀、夫婦善哉、曾根崎とちりばめた言葉が情景をくっきり描き出す。(昭和41年第17回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  16. 加茂川ブルース

    1968年4月発売

    昭和38年にフランク永井がデビュー8年目に初めて開催したリサイタルで、企画「女の四季」の傑作な一曲「夏の終りに」を作詞した東次郎の作品。関西大阪モノに対して京都モノを提供した。「多くの人に親しまれ残る曲は決して机の上では生まれない」として現地に足を運んで作られた。やや長い詞なのだがフランク永井ならではの歌唱でささやきかける。(昭和43年第19回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  17. おまえに

    1977年2月発売

    カラオケ全盛時代となりどこでも歌われるいまでも人気の曲。岩谷時子の詞に吉田正が作り上げた。吉田学校の若い生徒のめんどうをみるだけでなく、作曲作品の清書や資料の整理まで吉田正と二人三脚をくんできた喜代子夫人との愛情を想定して作られたのではといわれる。フランク永井はその表現の完成に昭和41年「大阪ろまん」のB面、昭和47年昭和52年と異例の3度歌い直してリリースした。(昭和49年第25回、昭和52年第28回、昭和56年第32回NHK紅白歌合戦にて歌唱)

    【解説】矢萩光也

  18. [ボーナストラック]
  19. 六本木ワルツ

    1985年2月発売

    この曲は恩師吉田正がフランク永井に書いた最後の曲で、当時絶頂の阿久悠が提供した詞でもあり、ビクタースタ ジオでレコード収録した最後の作品であるといわれる。昭和60年2月、デビュー30周年ライブ公演で歌われた。フランク永井がファンを魅了したライブもこれが最後となった。もの悲しげな恩師のメロディーによせて歌う「・・・ いつの日もラスト・ワルツ」のフレーズ、そして同じくこのライブで歌われた「あなたのすべてを」の「今度逢えるのはいつの日かしら・・・」のフレーズは、ファンへの最後のメッセージでもあった。フランク永井がファンを慕う気持ちの名残りを思わせ、聴いてせつない。

    【解説】矢萩光也


「もっとフランク! ~ベスト・オブ・フランク永井」

平成27年3月 矢萩光也
(データブック「フランク永井・魅惑の低音のすべて」監修者)

フランク永井がデビューしてから60年、突然に舞台を去ることになってから30年過ぎた。それでもフランク永井のファンは今も熱い。例えば生誕地の宮城県大崎市松山では「フランク永井歌コンクール」というユニークな催しが年を追うごとに盛り上がっている。3.11の傷もいやし終えてなく、人びとの生活がさまざまな格差にもだえ、せちがらさが気持ちを暗くする。戦後の日本が、貧しくとも明日への夢と希望を持って力強く復興に取り組んでいたときに、昭和歌謡は大きな心の支えであった。フランク永井の歌はその一角で、人びとに安らぎと勇気とを与えた。少しでも明るさを取り戻すエネルギーを求めるように、フランク永井の人気が続いている。フランク永井は昭和30年にデビューし、シベリア抑留時代に「異国の丘」を作曲したビクターの吉田正の指導を受けて2年後に「有楽町で逢いましょう」の大ヒットを得た。これ以来歌う曲が多くの人から受け入れられていった。彼だけに冠せられた「魅惑の低音」ということばが一世を風靡した。恩師吉田正は「労働で疲れた人のこころをいやす曲、街に流れる曲は日本の曲であらねば」と苦慮していたときに見出したフランク永井に、歌についてのすべてをさずけた。最後まで詞を提供した人に佐伯孝夫がいる。同じように多くの編曲をになった寺岡真三がいる。こうした最強のユニットが一体で実現したのがフランク永井の世界であった。本盤は、フランク永井のファンにとってはすでに聴き慣れた曲ばかりかもしれない。だが、ここに収録した曲にはそれぞれ背負った思いと情景がある。聴く人それぞれがその歌のヒットした時代の感情のこもごもと重なる。もちろん、流行歌は余計な他人の説明などいらない。自分の感性だけで聴けばいいのだが、こうしたすぐれた曲が生まれた当時を振り返ることでフランク永井の魅力への理解が少しでも深まればと思う。

■アルバムの曲順がラジオの時代をよみがえらせる

フランク永井のベスト盤は数多いが、リリース順の曲順というのはほとんどない。本盤では基本的にデビュー以来の発売順になっている。フランク永井の活躍をこのCDで一望できる。彼が活躍した時代は音楽を伝えるメディアが急激な変化をとげた。モノラルSP盤、ステレオEP/LP盤、ソノシート、カセットテープ、8トラックなどいずれもアナログ・メディアだが、映画、全国公演、雑誌も今と違う役割を果たした。しかし当時最大娯楽はラジオであり、人びとの口コミであった。ラジオの時代は現代のビジュアル時代と異なり、メロディー、歌詞、歌唱がいかに耳から聞こえるか、耳を通じていかなる印象をかもしだせるか、つまり「歌手は歌唱力」に全力が投入された。歌い手は歌がすべてで、声、歌唱を取ったら何もない。歌にすべて、まさに生きる力のすべてが歌と歌唱にそそがれた。聴かせる歌を生み出すことに周囲がみんなで打ち込んでいたのである。フランク永井も当然そうだった。作詞家はことばのあや(言霊)でいかに情景を描けるか、作曲家は琴線にふれるメロディーをどう創れるか、歌い手はどう声をあやつれば感情に訴えられるか、プロとしての技量をみがいた。それが歌い手とレコード会社のライバル意識を掻き立て、歴史に残る作品が続出した大きな要素であった。フランク永井はそのような世界で生まれたユニークな歌手のひとりであった。このCDに収められているボーナス・トラックの「六本木ワルツ」はフランク永井のレコード時代の終りだけでなく、流行歌がビジュアルとデジタルの時代へ完全移行を告げる曲でもあった。

■関西モノのメガヒットの背景にある地道な活動

フランク永井の歌った「有楽町で逢いましょう」は、恩師吉田正が日本の「都会の夜の大人の愛と別れ」の歌を書いて成功した。
そのころは、都会といえば東京、というようなイメージだったのだが、実は東京と並ぶ日本の大都市、関西の大阪や京都を歌った歌でも成功している。吉田正の「労働のいやしを歌で」という趣旨と同じ思いで、積極的に活動を展開していたのが大阪労音である。大阪朝日放送が「ABCホームソング」を長期人気のレギュラー番組でもち、NHK「ラジオ歌謡」とならんでオリジナル曲の訴求に力をいれていた。そうした地域の盛り上がった雰囲気があり、労音の常連としてフランク永井が出演していた。関西の文学や演芸で欠かせない石浜恒夫という名手が作り出す詞に、大野正雄が作曲して多くの傑作を残した。このCDではこうした関西の動きで生まれ育った曲が入っている。フランク永井が関西で受け入れられ、支持され親しまれたのももっともな背景がある。「都会派ムード歌謡」の元祖のようなイメージを背負うフランク永井だが、幅広い曲調においてヒットを実現しているのは、彼の豊かな 感性と、納得いくまで打ち込んだ「歌」の解釈への努力に負うところが大きい。彼のこの力量は洋楽も含めて国内のヒット曲の400曲におよぶカバーにいかんなく発揮されている。

■作曲・編曲の妙が歌手の能力を開発し歌唱力を引き上げる

本盤収録の曲の作詞、作曲、編曲を一覧したときの特徴として、編曲者がたいへん寄ったものになっている点がある。
代表曲となるほどヒットを記録した曲は、どうも作曲家の曲への思い入れがそうとうに深いようで、第一人者である吉田正はもちろん、異才渡久地政信もみずから編曲したというのが多いからだ。実現したい曲の完成形を編曲で自在にコントロールする。昭和36年に発表したリバイバル・ソング「君恋し」は寺岡真三が編曲した。このモダンなジャズ風の扱いは世を驚かすに十分だった。元詞には、やや古風な雰囲気の三番の歌詞があったのだが、フランク永井の提案により、二番のあとでサビの「君恋し・・・今宵も更け行く」を繰り返す形にして、よりジャズの趣きを強くした。従来のどちらかといえば高音歌手による印象が強い曲を、フランク永井の歌唱力を十分に引き出すかたちで復活させた。「君恋し」の成功で、この時代の圧倒的な歌唱力を持つ歌手として人気を不動のものとした。フランク永井の歌声の素晴らしかったところは、低音の魅力もあるがむしろあの声質をそこなうことなく、低音から高音まで一直線に伸びる声域で、特に高音の美しさにある。そして、詞とメロディーに応じ、それぞれ一小節ごとに微妙な工夫をこらしているところである。それを聴き手に対し、まずBGMのように押しつけずにここちよく聴かせ、繰り返して聴き入ると、奥の深さを裏切らない多段構造で歌っていることだ。フランク永井の並でない表現力の豊かさに感心することができる。「隣は何をする人ぞ」という都会。人はつながることを生活の一部にして、自立心とおおらかさをこころに育てる。吉田正の都会という主張は、現代に薄れゆくことへの暗示だったのではないか。恩師吉田正が望んだ「こころを表現する歌手」であり「都会のいやし」を表現できる希代の歌手がフランク永井であった。

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