国内コンピレーションにっぽんの情景~ふるさとからのたより25~
にっぽんの情景~ふるさとからのたより25~
商品名 にっぽんの情景~ふるさとからのたより25~
発売日 2012年03月11日
商品コード MICO-3039
JANコード 4571117352970
定価(税込) 2,305円
収録時間 72分190秒

美しく、懐かしきあの日の「ふるさと」・・・心やすらぐ、あたたかい日本の「唱歌」「叙情歌」がここにある。。


楽曲解説・歌詞カード付

収録内容


  1. 故郷(NHK東京放送児童合唱団)

    大正三年、『尋常小学唱歌』に掲載された小学校六年生の教材です。子ども時代、誰もが「兎美味しい・・・・・・」と勘違いして歌っていた懐かしい思い出が蘇ります。     
    高野辰之、岡野貞一のコンビではこの他にも「朧月夜」「春の小川」「紅葉」などの名作があります。「故郷」は日本人の好きな童謡・唱歌の人気投票では必ずのようにベストワンに上がってくる曲。文語調の歌詞は少々時代を感じさせますが、これからもずっと歌い継いでゆきたい作品です。

    ◇NHK東京放送児童合唱団
    「N児」の愛称で知られる、日本でも有数の児童合唱団。昭和二十七年、「少年少女に豊かな心を」という願いから、NHKの教育番組と子ども番組の充実を目的として設立された。以来、NHKのさまざまな番組への出演はもとより、海外の合唱団との交流、国内主要オーケストラとの共演など、活動の幅を広げている。卒業生には小堺一機や、エレファントカシマシの宮本浩次などがいる。平成十五年に「NHK東京児童合唱団」と名称を改変したが、本CDでは、懐かしいかつての呼称にてクレジットした。

    【解説】田中修二

  2. 夏の思い出(東京レディース・シンガーズ)

    昭和二十四年六月十三日から、NHK「ラジオ歌謡」として、石井好子の歌で放送されました。旋律の音が急に跳躍せず、順々と隣の音に移る「順次進行」で書かれているため気軽に口ずさむことができます。この歌とともに尾瀬は一躍観光の名所となりました。中田喜直は意外にも尾瀬を訪れることのないままメロディーをすらすらと書き上げたといいます。この歌が「私の愛唱歌シリーズ」と題された記念切手になったことを受けて、中田いわく“私と切手とはキッテも切れない縁”。

    ◇東京レディース・シンガーズ
    昭和六十年に創立された声楽専門家による女声合唱団常任指揮者前田二生。創立以来、合唱音楽のレベル向上を目指し、西村朗、池辺晋一郎、新実徳英、小林秀雄等への委嘱作品の演奏の披露につとめる。定期公演、特別コンサート、海外公演等は多岐に亘り、透明なアンサンブルと豊かな歌唱力が注目されている。平成十三年度芸術祭優秀賞受賞。数多くの中学・高校向け教材CDでも活躍している。

    【解説】田中修二

  3. 椰子の実(鈴木寛一)

    昭和十一年七月十三日、始まって間もないNHラジオ「国民歌謡」で放送されました。番組で歌ったのはちょっと意外な東海林太郎です。
    柳田国男が、愛知県伊良湖岬に流れ着いた椰子の実のことを親友の島崎藤村に話したことからこの詩が生まれました。藤村の『落梅集』に収められている作品で、明治三十三年の作です。ずっと後の昭和十一年になって曲が付きました。
    大中寅二はオルガン奏者、合唱指揮者で、「サッちゃん」などで知られる作曲家大中恩の父にあたります。

    ◇鈴木寛一 (すずき・かんいち)
    東京藝術大学卒。 昭和五十二年にウィーンに留学。昭和五十一年、昭和六十一年ジロー・オペラ賞受賞。海外ではロドルフォ・リッチ、リリー・コラーに師事し、昭和四十年「ドン・ジョヴァンニ」のドン・オッタヴィオでオペラの世界にデビュー以来、プリモ・テノールとして数多くの舞台を経験。「蝶々夫人」「セヴィリアの理髪師」「愛の妙薬」「魔笛」「こうもり」「夕鶴」等、主なオペ ラの主役を演じ、甘いベルカント唱法が評価されている。一方、宗教曲の分野でもマタチッチ、スウィトナー、シュタイン、サヴァリッシュ、小澤征爾等の一流指揮者のもとで各オーケストラと共演を重ね、特に「マタイ受難曲」のエヴァンゲリストでは、第一人者として活躍を続けている。平成十年日本オペラ協会「春琴抄」利太郎、平成十一年Bunkamuraオペラ「トゥーランドット」皇帝アルトゥームで出演。東京藝術大学名誉教授。尚美学園大学教授。日本声楽アカデミー会員。

    【解説】田中修二

  4. 砂山(鮫島有美子)

    大正十一年六月、北原白秋は新潟に赴いた折に、ある音楽会に招待されました。自分の作品ばかりを集めた音楽会で、熱烈な歓迎を受けた白秋は、今度新潟に来るときにはお礼として新潟をうたった歌をプレゼントする約束をしました。荒涼とした新潟の寄居浜は今にも雨が降り出しそうで、一面に茱萸の原っぱが広がっていました。そして、夕暮れの浜辺では子どもたちが鬼ごっこをしたり、砂を掘ったりして遊んでいます。白秋の住んでいた小田原の浜辺とはずいぶん違ったもの寂しい光景は「砂山」という詩になりました。北原白秋の詩には複数の作曲家が曲を付けたものが多くあります。複数のメロディーのうち、一つだけが生き残り、他は忘れられることが多い中で「砂山」は中山晋平の旋律と山田耕筰のものとがともに広く愛唱されている珍しい例です。

    ◇鮫島有美子(さめじま・ゆみこ)
    昭和五十年二期会オペラ《オテロ》のデズデーモナで主役デビュー。その後、ドイツ政府奨学生としてベルリン音楽大学に留学。名ソプラノ、エリザベート・グリュンマーに学ぶ。在学中より、ドイツ国内やヨーロッパ各地で様々な演奏活動を始め、昭和五十七年よりドイツ、ウルム歌劇場の専属歌手として種々の大役を演じてきた。昭和六十年、《日本のうた》でレコードデビューを果たし、一躍脚光を浴びる。ドイツをはじめヨーロッパ諸国、中南米、そして日本でも、オペラやリサイタル、全国にわたるコンサートのツアー、テレビ、ラジオなど精力的にその活動の場を広げている。

    【解説】田中修二

  5. 浜辺の歌(NHK東京放送児童合唱団)

    大正二年の作品。原題は「はまべ」で、四番までありました。作者の了解なしに三番の前半と四番の後半とがくっつけられ、「はやちたちまち波を吹き 赤裳のすそぞぬれもせじ 病みし我はすべて癒えて 浜辺の真砂まなごいまは」という歌詩が作られたことがあります。これでは意味が通じないから歌ってくれるなと、林古溪からクレームがつき、現在では二番までしか歌われなくなりました。四番までの原作は残念ながら現存していないということです。

    【解説】田中修二

  6. 波浮の港(三鷹 淳)

    大正十三年、雑誌社からの依頼を受けた野口雨情は、渡された伊豆大島の写真を見ながら詩を書きました。雨情の郷里である北茨城の方言も交えて書かれています。読みにくい「波浮」をカタカナ表記にしてはどうかという提案がありましたが、「ハブ」は蛇を想像させてしまうので、結局、漢字のまま「波浮の港」となりました。三番の歌詩は、昭和三年に佐藤千夜子のレコードが作られる際に付け加えられました。
    「ヤレホンニサ」という囃子言葉は、雨情ではなく、中山晋平が作曲段階で加えたものです。

    ◇三鷹 淳(みたか・じゅん)
    本名は持光正輝(もちみつ・まさてる)。 昭和九年1月七日、山口県宇部市出身。昭和三十二年、東京の国立音大声楽科を卒業。NHKテレビ「歌の広場」のニューボイスでデビュー。ホームソング歌手として、コロムビア専属となり、歌謡曲、軍歌からアニメ・特撮ソングまで幅広く歌った。東京富士大学 (富士短期大学)では芸術論講師として教鞭をとる。また、ボイス・トレーナーとしてプロ歌手の育成にも当たっている。録音した社歌や県民歌・市町村歌は数百曲ともいわれる

    【解説】田中修二

  7. 荒城の月(平松混声合唱団)

    明治三十四年の『中学唱歌』に発表された作品です。瀧廉太郎が書いたのは旋律のみ。現在広く親しまれているのは山田耕筰が編曲し、ピアノパートを付け加えたものです。原曲では「花の宴」の「え」の音に#(シャープ)が付いていて、半音高く歌うようになっていましたが、耕筰はこの#をはずし、さらに、八分音符を四分音符に置き換え、全体をゆったりと歌う日本歌曲に仕上げています。
    大分県竹田市の岡城址には、瀧廉太郎の銅像と、この曲の歌碑が建てられています。

    ◇平松混声合唱団
    昭和五十七年 平松剛一氏の基に発足、結成三十年を迎える。平成六年、全日本合唱コンクール金賞受賞。平成十一年、ウィーンで行われたシューベルト国際合唱コンクールで第二位、及び特別賞を受賞。これまで、定期演奏会を始め、特別演奏会、スクールコンサートなどを全国各地で行う傍ら、合唱CDレコーディング、NTV系列《24時間テレビ 愛は地球を救う》《世界一受けたい授業》、NHK《みんなのコーラス》《みんな大好き》などのテレビ・ラジオに出演。平成十二年には 宝塚歌劇団との共演、平成十七年、戦後六十年を記念して「さとうきび畑」を作詞・作曲した寺島尚彦ファミリーと沖縄・平和祈念堂にてコンサートを開催、また青島広志氏との共演やキム・ヨンジャ、吉幾三との共演などジャンルを超えた幅広い演奏活動を行っている。

    【解説】田中修二

  8. 城ヶ島の雨 ★(森繁久彌)

    大正二年、島村抱月、松井須磨子らの「芸術座」は新曲の音楽会を開くことになり、白秋は作詩の依頼を受けました。東京から神奈川の三浦に移り住んだばかりの白秋は、城ヶ島周辺を散策しながら構想を練り、推敲に推敲を重ねてこの詩を完成させました。それは音楽会の三日前のことで、作曲家の梁田貞はわずかの時間で曲を書き上げ、本番では自らが歌いました。梁田は当時、東京音楽学校で声楽を専攻する生徒でした。

    ◇森繁久彌(もりしげ・ひさや)
    NHKアナウンサーからコメディアンへ、そして役者へと華麗なる転身を遂げた稀代の「芸人」森繁久彌。平成二十一年十一月十日にこの世を去るまで、「森繁」の愛称で親しまれたが、歌手としての森繁は当時珍しかった「アルバム歌手」だった。企画性の高いアルバム「おらが歌さ」シリーズを四枚リリースするなど、その個性やメッセージ性の高さは、聴く者に「癒し」を与え、独特のノスタルジックな魅力を持つ独自の音楽世界を持っていた。

    【解説】田中修二

  9. 浜千鳥(川田正子)

    大正八年に書かれた詩は、翌年、雑誌『少女号』に発表され、曲が付きました。この歌には娘を亡くした鹿島鳴秋の悲しみが込められていると言われることがありますが、娘が亡くなったのは昭和になってからのことで、「浜千鳥」の完成よりも後のこと。この説は間違いということになります。
    千鳥は親を探して夜通し寂しげに鳴くという謂れがあります。鹿島は、幼い頃に父親を亡くし、母親も再婚のため家を出てしまって、祖父母に育てられています。鹿島自身が「親を探して鳴く鳥」であったのかもしれません。

    ◇川田正子(かわだ・まさこ)
    川田正子 (昭和九年七月十二日-平成十八年一月二十二日)は、日本の童謡歌手。幼少期より日本で最も伝統のある児童合唱団音羽ゆりかご会に所属し、作曲家海沼實に師事して才能を開花すると童謡や唱歌を数多く歌唱。甥にあたる現音羽ゆりかご会会長の作曲家三代目海沼実らによって顕彰され、没後も童謡界のカリスマとして根強い人気を誇っている。昭和二十一年「みかんの花咲く丘」などが代表曲。後年は自身の児童合唱団「森の木児童合唱団」を主宰。合唱団と共に舞台を制作しコンサートを行い、平成十三年には六十周年を迎えている。平成十八年、長崎県で開催された「子守唄と童謡コンサート」に出演後の夜、意識を失いそのまま”童謡一筋”の生涯を閉じた。享年七十一 歳。

    【解説】田中修二

  10. からたちの花(日本合唱協会)

    大正十三年、児童文芸雑誌『赤い鳥』七月号に詩が掲載されました。小学生くらいの男の子が、からたちのトゲで指をさしたところを、年長の男の子がやさしく見守る絵とともに紹介されています。白秋の郷里福岡県柳川の通学路にも、また、後年、神奈川県小田原に居を構えたときにも、近くの散歩道にはからたちがありました。
    山田耕筰は、この曲ほど単純に書かれ、日本語を生かしているものは少なく、最もむずかしい曲の一つであると言っています。耕筰が少年時代を過ごした家の庭にもからたがありました。

    ◇日本合唱協会
    日本合唱協会は日本の職業混声合唱団。東京混声合唱団(以下、東混)の大規模化、大編成化に反対、退団した声楽家達によって昭和三十八年に創立された。東混が比較的多い人数で幅広いレパートリーをカバーしたのに対し、日本合唱協会は当初から少ない人数で精緻なハーモニーを追求する「混声室内合唱団」というコンセプトを特徴としている。昭和四十一年から平成三年まで山田一雄が音楽監督を務め、その他にも若杉弘や秋山和慶、北原幸男などがしばしば指揮台に上がっている。創立期、収入が少ないので小さいアバートにメンバーの一部が同宿していたという、微笑ましい逸話がある。

    【解説】田中修二

  11. 星の界(ダ・カーポ)

    明治四十三年、『中学唱歌』に掲載されました。「星の界」と書いて「ほしのよ」と読みます。讃美歌として結婚式でも歌われるお馴染みのメロディーです。「星の世界」と題された川路柳虹による新しい歌詩もありますが、格調高いこの文語調のほうが懐かしいという方が多いでしょう。果てしなく遠い星の世界を探求に行こうという内容です。
    杉谷代水は、明治七年、鳥取県境港市生まれ。外国の児童文学の翻訳が多く、アミーチス原作による「母をたずねて三千里」は杉谷の訳語です。

    ◇ダ・カーポ
    フォーク・デュオのダ・カーポは、榊原まさとし・広子の夫婦コンビ。いつまでも初心を忘れないようにという意味でダ・カーポ (音楽用語で最初に戻るという意味)と名付け、昭和四十八年「夏の日の忘れもの」でデビュー。翌年、フォーク調のさわやかなハーモニーで、「結婚するって本当ですか」がヒット。以来、「野に咲く花のように」、「宗谷岬」と代表曲をリリース、また 「ファンタジーシリーズ」として「童謡」「抒情歌」「フォークソング」「アコースティック」と、日本の歌を題材としたカヴァー・アルバムを発表。デビュー三十五周年を迎えた年に、愛娘でありステージでも彼らをサポートしてきたフルーティストの榊原麻理子を正式なメンバーに迎え、レコーディングやステージでも親子三人での活動をスタート。平成二十四年には四十周年を迎える。

    【解説】田中修二

  12. ふじの山(富士山)(ひばり児童合唱団)

    明治四十三年の『尋常小学読本唱歌』に 掲載されました。その後も「富士山」というタイトルで長く教科書に掲載されてきた小学校二年生の教材です。
    巌谷小波(いわや さざなみ)は「明治の三筆」の一人として知られる書家の巌谷一六の息子にあたります。日本の児童文学の草分けともいえる存在で、アンデルセン、グリムなどの外国の児童文学を日本に紹介しました。財団法人日本青年文化センターの主催により、青少年の文化に先駆的な仕事をした人および団体を対象とした「巌谷小波文芸賞」が設けられています。

    ◇ひばり児童合唱団
    昭和十八年に皆川和子によって東京杉並区荻窪で設立され、東京都目黒区に拠点を置く児童合唱団。定期演奏会の他、アーティストのコンサートへの出演・オペ ラ(舞台)・テレビ出演・CM・CDレコーディング等の活動もしている。三歳から高校三年生までで構成され、演奏会の伴奏やゲストとして学生時代の矢代秋、富田勲も出演したことがある。卒業生には安田祥子、由紀さおり、本間千代子、松島トモ子らがいる。吉永小百合も、団員ではなかったが、かつて皆川和子の個人レッスンを受けていた。昭和二十六年当時はコロムビア専属、昭和三十七年にはキングレコードと専属契約を結んでいた。

    【解説】田中修二

  13. 花かげ(鮫島有美子)

    作詩をした大村主計は「かずえ」と読み、男性です。まわりからは「しゅけいさん」と呼ばれ親しまれていました。山梨県牧丘町(現山梨市)の出身で、地元では毎年「花かげコーラス大会」が開かれています。出演団体はみんなが課題曲として「花かげ」を歌う音楽会ですが、これは技を競い合うコンクールではなく、それぞれの団体は個性を生かしてさまざまなスタイルの「花かげ」を歌っています。作曲の豊田義一はハーモニカ奏者です。大村・豊田コンビによる「絵日傘」とともに親しまれている童謡です。

    【解説】田中修二

  14. かあさんの歌(岡本敦郎)

    窪田聡は、昭和十年東京生まれ。開成高校卒業後、早稲田大学に合格しながらも、親からもらった入学金を持って家出し、うたごえ運動に参画。居どころを何とか探し当てた母親からは手編みのセーターや食糧が届きます。決して両親に従順ではなかっという窪田ですが、「かあさんの歌」に感謝の気持ちを込めました。 昭和三十一年二 月に発表されたこの曲は、ダーク・ダックスやペギー葉山の歌で広く知られるようになりました。昭和三十七年にはNHK「みんなのうた」にも登場しています。

    ◇岡本敦郎(おかもと・あつお)
    小樽市出身の歌手。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学) 声楽科卒業。日本コロムビア所属。昭和二十一年にラジオ歌謡のホームソング「朝はどこから」でデビュー。 抜群に伸びのある美声と正統派の歌唱で、戦後の歌謡界で活躍した。「白い花の咲く頃」や「チャペ ルの鐘」「あこがれの郵便馬車」などのヒットを経て、昭和二十九年にリリースした「高原列車は行く」が大ヒットとなり、岡本敦郎の代表曲となった。多くのラジオ歌謡を吹き込んだことから、ミスターラジオ歌謡の異名を持つ。NHK紅白歌合戦にも七回出場。舟木一夫の大ヒット曲「高校三年生」は岡本の吹き込みを想定して作られたそうである。平成十九年に脳梗塞のため入院したが早期発見が幸いして回復。八十歳を越えた現在でも「思い出のメロディー」(NHK)やテレビ東京の懐メロ番組へ常連出演し、健在振りを見せている。

    【解説】田中修二

  15. 埴生の宿(鈴木寛一)

    「埴生の宿」とは貧しい粗末な家のことです。原曲は「Home, Sweet Home(楽しい我が家)で、アメリカの劇作家ペインの詩にイギリスのビジョップという人が曲を付けたものです。「ミラノの娘クラリ」という歌劇の中の一曲でしたが、歌劇は今では上演されることもなく、この歌だけが独立して残っています。
    日本では明治二十二年の『中等唱歌集』に掲載されました。映画『ビルマの竪琴』の中で歌われたのを覚えている方も多いことでしょう。里見義の日本語は原詩に忠実で、これは日本での訳詩第一号とも呼ぶべき一曲です。

    【解説】田中修二

  16. しれとこ旅情 (森繁久彌、コロムビア女声合唱団)

    昭和三十五年、森繁久彌は映画の撮影のために知床に長期滞在したことがあります。撮影も終わりが近づいたとき、お世話になった地元の人たちへの感謝の気持ちを込めて即興的に作詩・作曲し、ギターを片手に歌ったのが「しれとこ旅情」のはじまり。森繁の作詩・作曲による元歌「オホーツクの舟唄」のなかで、海の男たちの威勢のいい掛け声とともに、「しれとこ旅情」の甘いメロディーが登場します。森繁と並んで、加藤登紀子の歌声も印象的に耳に残っています。

    【解説】田中修二

  17. 雨(川田正子)

    創刊して間もない児童文芸雑誌「赤い鳥』の大正七年九月号に“新作童謡〟として発表されました。とは言っても掲載されたのは詩のみで、曲は後から付いたものです。一般には弘田龍太郎のメロディーで知られていますが、同じ詩に成田為三も曲を付けています。原作では「紅緒のお下駄」となっていた部分が、翌年の童謡集『とんぼの眼玉』では「紅緒の木履」と改定されています。
    ゆったりとしたテンポで歌うのが慣例となっていますが、作曲家はもっと早い速度の指定をしています。

    【解説】田中修二

  18. 冬の夜(NHK東京放送児童合唱団)

    明治四十五年、『尋常小学唱歌』に掲載された小学校三年生の教材です。当時は作者は伏せられていましたが、作詩は歌人の下村千別ではないかと言われています。心も体も温かくなるような唱歌です。
    歌詩には「燈火」「囲炉裏」など、現代にはあまりそぐわない言葉が出てきます。また、平成の父親は縄をなうこともなく、母親はあまり裁縫をしなくなった感があります。
    二番の「過ぎしいくさの手柄を語る」の部分は、戦後になって「過ぎし昔の思い出語る」と改定されています。

    【解説】田中修二

  19. この道(鮫島有美子)

    児童文芸雑誌『赤い鳥』の大正十五年八月号に詩が発表され、昭和二年に山田耕筰の曲が付きました。この詩は白秋が歌人の吉植庄亮と一緒に北海道旅行をした際に、札幌の時計台のある風景に心をうたれて書いたものです。
    四分の三拍子と四分の二拍子とが組み合わさってできていて、一見ややこしそうですが、日本語のリズムをそのままメロディーに乗せた結果です。山田耕筰は日本語の響きを大切にし、言葉の持つアクセント、イントネーション、リズムをそのまま生かした曲作りをしました。詩を朗読していたときと、歌ったときとで、アクセントの高低がほぼ一致していることを確認してみてください。

    【解説】田中修二

  20. 一月一日(コロムビアすずらんコーラス)

    明治二十六年の官報に発表されたという明治政府推奨の一曲。作詩の千家尊福(せんげたかとみ)は出雲大社大宮司、東京府知事、司法大臣を務めています。作曲の上眞行(うえさねみち)は雅楽家であり作曲家。いちはやく西洋音楽を学んだ一人です。この曲にも見事な和声の伴奏パートを付けています。
    この歌はいろいろな替え歌が流行りました。いくつかのバリエーションがありますが「豆腐の初めのがんもどき 尾張名古屋の大地震 松竹ひっくり返して大騒ぎ 芋を食うこそ楽しけれ」などもその一つ。

    ◇コロムビアすずらんコーラス、コロムビア合唱団
    近年まで、レコードの吹き込みに際しては、スタジオ・ミュージシャンやコーラスグループ、あるいは合唱団なども、当時のレコードメーカーの名前を冠した別称を用いたことが知られている。例えば海沼實が創設し、一時期のN児=NHK東京放送児童合唱団の別称でも活動した音羽ゆりかご会は、戦後期の子ども向けレコードやアニメーション番組のテーマソング、文部省唱歌の収録においては「コロムビアゆりかご会」という名称を用いた。また児童合唱団でない場合には「コロムビア男声合唱団」、「コロムビア女声合唱団」、ある いは単に「コロムビア合唱団」「コロムビア〇〇コーラス」という名称でクレジットされている。同様に、当時スタジオで演奏したスタジオ・ミュージシャン(メンバーは時代により、また日によっても違った)はほとんどの場合、「コロムビア・オーケストラ」や「コロムビア・アンサンブル」という名前でレコードにクレジットされたのである。

    【解説】田中修二

  21. 仰げば尊し(コロムビア合唱団)

    明治十七年六月、『小学唱歌集 第三編』に収録されました。古い唱歌ですが、西洋音階を積極的に取り入れていること、当時あまり見られない八分の六拍子であること、日本語のアクセントの高低とメロディーの動きがうまく合っていることなど、明治時代の唱歌としては斬新な点がいくつも見受けられます。以前から外国曲であろうとの見方がありましたが、平成二十三年になってアメリカの作品であることが確認されました。
    昭和二十九年に封切られた高峰秀子主演の松竹映画『二十四の瞳』ではこの曲がメイン・テーマとして高らかに歌われていま す。

    【解説】田中修二

  22. 蛍の光(杉並児童合唱団)

    明治十四年の『小学唱歌集 初編』に「蛍」のタイトルで発表されました。当時は四番まで歌詩がありました。スコットランドのメロディーで、原曲は別れの歌ではなく、遠い昔を偲ぶ内容でした。
    NHK紅白歌合戦の最後で、歌手の藤山一郎はいつもこの曲の指揮をしていましたが、決して歌うことはなかったという有名な話があります。歌い出しの「ほたるの光・・・」の部分が不自然で日本語のアクセントに合っていないという理由からです。標準的なアクセントでは「蛍」は「ホ」を高く発音し、「光」は「カ」で高くなりますが、歌ではそうなっていません。

    ◇杉並児童合唱団
    杉並児童合唱団は、「杉児」の愛称で知られ、昭和三 十九年に誕生した。同時期にスタートしたNHKの「歌のメリーゴーラウンド」(後の「歌は友だち」)のレギュラー団体として出演していた。主な演奏活動は東京での定期演奏会の他、全国各地への演奏旅行(招聘)・オペラ出演や教材・CMソングレコーディング・TV・CM出演など精力的に活動中。代表的な作品に、日立グループのCMソング「この木なんの木(日立の樹)」や「銀河鉄道999」主題歌「となりのトト口」より「さんぽ」などがある。

    【解説】田中修二

  23. ちいさい秋みつけた (中谷友香、森の木児童合唱団)

    昭和三十年十一月三日、NHKで「歌の祭典」という番組を放送することになり、新作依頼がサトウハチローのところにきました。防音が効いている仕事部屋にこもるとそこは別世界。赤く色づいたはぜの葉、百舌、くもりガラス・・・・・・。ハチローのアトリエの秋を描いたのがこの歌です。番組では伴久美子が歌いました。三十七年に作られたボニージャックスのレコードは、同年の第四回日本レコード大賞童謡賞に輝いています。野球好きのハチローのもとで色づいていたはぜの木は、東京ドームに程近い公園に移植され、道行く人々に小さな秋を告げています。

    ◇森の木児童合唱団
    一人一人がソロで歌える合唱団として昭和五十四年に童謡歌手の川田正子が創立。年1回の定期演奏会をはじめ、数多くのレコーディングをこなし、テレビ、ラジ オ、舞台、音楽祭などで活躍したが、川田正子が平成十八年一月二十二日に亡くなった後は活動が減少し、平成二十年に解団。川田がコロムビア専属であったことから、童謡、唱歌からアニメソングまで、コロムビアに数多くの録音を残した。この曲の中谷友香のように、ソロ・パートの存在する曲では必ず個人名をクレジットした。川田が目指した「一人一人がソロで歌える」という理念の表れだったのであろう。現在はもとの森の木児童合唱団を母体に、新メンバーを集め「ことのみ児童合唱団」として活動中。

    【解説】田中修二

  24. 雪のふるまちを(ダ·カーポ)

    昭和二十四年十月、NHKラジオで連続放送劇「えり子とともに」が始まりました。人気の高い番組で、当初一年間の予定だったものが、昭和二十七年四月まで放送が延長されました。台本が少々短く、放送時間に空白ができてしまうことになったとき、挿入されたのがこの曲。ドラマの原作者である内村直也が作詩し、芥川也寸志から音楽を引き継いだ中田喜直が作曲しました。昭和二十六年十二月のことです。このときは一番のみでしたが、後に三番までの歌詩が作られ、昭和二十八年二月には「ラジオ歌謡」としても放送されました。

    【解説】田中修二

  25. 故郷の空 (男声合唱団東京リーダーターフェル1925)

    明治二十一年発行の『明治唱歌(一)』に収められています。原曲は「Comin' through the Rye (ライ麦畑をよぎって)」というスコットランド民謡。ドリフターズが歌った「誰かさんと誰かさんが麦畑・・・・・・」という歌詩は「故郷の空」の替え歌のように思われていますが、実はこちらのほうが原詩に近い内容です。原曲はスコットランド特有の、いわゆる「逆付点」のリズム"スコッチ・スナップ"で書かれていますが、日本語では歌いにくいため、作曲家の奥好義(おくよしいさ)はシンプルな通常の付点のリズムに統一した楽譜を作りました。

    ◇男声合唱団東京リーダーターフェル1925
    ドイツの男声合唱に強くあこがれていた同志社グリークラブ出身の故・山口隆俊や、後に全日本合唱連盟理事長を務めた故・秋山日出夫らによって大正十四年に創立された、創立八十七年を迎える日本最古の一般の男声合唱団。創立以来ドイツ合唱界との交流が深く、長い間日本でも唯一のドイツ合唱連盟海外会員として活躍。ドイツとの交歓演奏会を開催するほか、昭和五十九年からは韓国男声合唱団(KMC)との交流も始め、東京・ソウルで持ち回りの合同演奏会を開催。団員数は約百十七名、メンバーは二十代から七十代に及ぶ幅広い年齢層で構成されている。

    【解説】田中修二

★mono
一部に古い音源を使用しておりますのでお聴き苦しい箇所がありますが、 オリジナル・マスター・テープにあるものです。ご了承下さい。
ページのトップへ戻る