落語落語決定盤 其の一
落語決定盤 其の一
商品名 落語決定盤 其の一
発売日 2012年06月20日
商品コード MICO-1061/2
JANコード 4571117353007
定価(税込) 3,143円
収録時間 DISC-1:68分12秒
DISC-2:68分44秒

伸びやかな時代の忘れてしまって何かがきっと見つかるハズですよ・・・林家たい平

再考の名人による爆笑、至芸を厳選!!コロムビアの豊富な落語音源から至高の名人の十八番および熱演の数々をたっぷり収録したベストセレクション。落語通にも入門者にも最適の落語集。


解説付(演芸評論家 保田武宏)

イラスト:林家たい平


※このCDは、古い音源を使用しているため、お聞きぐるしい箇所がございます。あらかじめご了承下さい。また、一部不適切と思われる表現が用いられている場合がございますが、オリジナル性を尊重し、できるだけそのまま収録・編集いたしました。併せてご了承下さい。

★モノラル録音(DISC-1 ②を除く)

収録内容


    DISC-1
  1. 火焰太鼓(19分28秒)

     数多い志ん生のレパートリーの中で、 十八番中の十八番と言われるのが、この「火焔太鼓」である。「志ん生の火焔太鼓か、火焔太鼓の志ん生か」と言われたくらいで、高座にかける回数も多かった。 明治時代に初代三遊亭遊三がやっていたのを、志ん生が聞いて覚えたと言われている。しかし、たくさんのクスグリは、ほとんど志ん生が考えたもので、志ん生の創作と言ってもよいくらいだ。だから志ん生が健在のころは、他の落語家は遠慮して誰もこの噺をやらなかった。 志ん生の「火焔太鼓」は、単に笑いが多いばかりでなく、甚兵衛夫婦の人間性がよく描かれている。甚兵衛の家庭は、女房上位でありながら、ほのぼのとしたものがある。この噺が現代に生きている所以である。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    五代目 古今亭 志ん生 [昭和33(一九五八)年11月2日 NHK]

  2. 痴楽つづり方狂室~恋愛編~(23分46秒)★

    痴楽はレパートリーが少なかったが、その代わり落語の前に必ずやっていた「つづり方狂室」に力を入れていた。その数三百を超えるという。そして同じものでも、絶えず時の流れに合わせて改作していた。 ここに収録したのは、恋愛編十編で、「東京娘の言う事にゃ」「ガメツイ恋」「カラー時代」「青春(はる)のめざめ」「猫の恋」「恋の山手線」「無責任時代」「流行語の恋」「トイレの恋」「九州の恋」である。昭和四十一年の収録だ。 「東京娘の言う事にゃ」と「ガメツイ恋」は、「青春日記」と題していたものが二つに分かれた。文句もかなり変わっている。また「恋の山手線」も、その後、西日暮里駅が開業すると、それを加えていた。「日暮里笑ったあのえくぼ」の後に「西日暮里と濡れてみたいが人の常」と入れたのである。もっともこれを入れてからまもなく、痴楽が倒れたので、聞いた人は少ないであろう。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    四代目 柳亭 痴楽 三味線:橘 つや笛:三笑亭哥勇 太鼓:柳亭痴楽蔵 鉦:春風亭栄橋 [昭和41(一九六六)年4月12日 スタジオ録音]

  3. 青菜(24分48秒)

     人の真似をしようとして失敗するパターンの落語は、笑いを取りやすいので数多くある。この噺もその一つだが、そればかりではなく夏の風物詩のような味わいのある噺である。 元来上方の噺だが、東京にすっかり定着していて、上方の臭いはなくなっている。上方は上方で、今でも盛んに演じられている。 ただ、細かい言葉に、上方の名残りが発見できる。植木屋が大家の旦那に飲ませてもらう酒の名がそうだ。柳蔭というのは上方の名前で、東京では直しという。ミリンと焼酎を半分ずつ混ぜたもので、高級なものではないが、冷やして飲むのに適している。昔は今のように冷蔵庫などというものがないので、せいぜい井戸で冷やす程度。それもめったにありつけなかったので、贅沢な飲み物だったわけだ。今同じ温度の柳蔭を飲んでも、なまぬるいとしか感じないかもしれないが。 隠し言葉というのも、この噺を風流にしている。「鞍馬から牛若丸がいでまして、その名 (菜)を九郎(食ろう)判官」などというのは、菜がなくなった時にしか使えないから隠し言葉としては利用度の低いものだが、内容は優雅である。 サゲの「弁慶にしておけ」は、東京では単なる義経からの連想にとどまっているが、上方では弁慶という言葉に人のおごりでふるまわれるという意味がある。菜がないので、単にやめておくだけではなく、おごってくれと言ったのだと拡大解釈してみるのも面白い。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    五代目 柳家 小さん [昭和35~36(一九六〇~六一) 鈴本演芸場]

    DISC-2
  1. 居酒屋(12分30秒)

     この噺の舞台になっている居酒屋は、今のチェーン店のそれとは店の雰囲気が違う。大正から昭和の初めにかけて存在した、土間に醤油樽を置いて椅子にしたような店である。 この噺は金馬の出世作で、昭和四年にレコードで発売されると、たちまち全国的に売れた。 元来は「ずっこけ」という噺の前半だったとも、また「両国八景」「関津富」の一部であったとも言われ、また金馬の説によると、「万病円」から分かれたのだそうだ。しかし江戸小噺に原話がある。文化三(一八〇六)年に出た『噺の見世開』に載っている「酒呑の横着」がそれで、かなり古くから演じられていたが、独立した噺にはならなかったようだ。 いずれにしても、酔っ払いが店の小僧をからかっているだけの噺を一席に独立させ、面白おかしくしたのは金馬の功績である。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    三代目 三遊亭 金馬 [昭和33(一九五八)年11月2日 NHK]

  2. そば清(27分35秒)

     「そば清」とは変な題だが、これは「そばの清兵衛」を詰めたものである。落語にはこういう題が多い。それと同時にこの題は、そばを自分の坐った背の高さだけ食べる「そば背」の洒落になっている。だからこの噺の主人公の名前は、清兵衛でなくてはならない。落語の登場人物の名前など、いい加減でよいように見えるが、案外考えて付けている。 上方には、この噺のそばを餅にした「蛇含草」という噺があり、東京にも移されている。最近では、「蛇含草」のほうが東京でもお馴染になっているようだ。そのせいか「そば清」は上方の「蛇含草」を持って来て、そばに変えたとの説があるが、江戸では文化年間から高座にかけられているので、生粋の江戸落語と見てよいだろう。 馬生のは、清兵衛が旅へ行く前にそば屋で賭けをして勝つくだりが入っているが、古い型にはこれがなく、清兵衛が山中でうわばみを目撃するところから始まっている。三代目三遊亭小圓朝はこの型でやっていた。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    十代目 金原亭 馬生 [昭和55(一九八〇)年10月18日 上野本牧亭]

  3. 寝床(28分29秒)

     義太夫は現在、明治時代ほどポピュラーではなくなった。しかし、自分の下手な芸を、人に聞かせたくて仕方が無いというヤカラは、今もいる。カラオケで部下に無理やり自分の歌を聞かせる部長、友達を集めて一席しゃべりたがる素人落語家などである。だから、この噺は今も生きている。 この噺ほど、大看板が競ってやったものは他にない。圓生のほか、八代目桂文楽、五代目古今亭志ん生、三代目三遊亭金馬、八代目三笑亭可楽と並ぶ。それぞれに特色があって、面白かった。オーソドックスなのが文楽で、家主の喜怒哀楽の変化を描写するのに重きを置いていた。反対に型破りなのが志ん生。途中から脱線して、蔵の中へ義太夫を語り込む。漫画的描写を主としていた。 圓生のは、その中間的なやり方。大正の初めに、初代柳家小せんから譲られたもので、鳶頭(かしら)が詫びをしているときに、悪口を言いかけては気が付いて言い直すところ、長屋の連中が集まって愚痴をこぼすところが面白い。 古くは元和(一六一五~一六二四年)ごろに出た『きのふはけふの物語』や、中国清の時代に出た笑話集『笑得好』に載っている「市中弾琴」に、この噺の原型が見られる。安永(一七七二~一七八一年)以後の小噺本には、しばしば登場する。『和漢咄会』『再成餅』『口拍子』などである。文政四(一八二一)年に出た松浦静山の『甲子夜話』続十七巻にも見られ、幕末の安政(一八五四~一八六〇年)ごろに出た、『新作落しばなし』の「軒の露」では、現在のサゲと同じになっている。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    六代目 三遊亭 圓生 [昭和38(一九六三)年11月7日 NHK]



プロフィール


【五代目 古今亭 志ん生】

本名・美濃部孝蔵
明治二十三年六月二十八日、東京で生まれる。明治四十三年ごろ、二代目三遊亭小圓朝に入門し、朝太と名乗る。飲む、打つ、買うの三道楽のために苦しい生活が続く。借金取りから逃げる意味もあって、次から次へと名前を変えた。昭和十四年に志ん生を襲名するまでに、改名すること十七回。師匠も小圓朝から六代目金原亭馬生、講談の三代目小金井芦州、初代柳家三語楼と変えたが、さっぱり芽が出なかった。 昭和九年に馬生を襲名してから、ようやく日が当たってきて、志ん生になってからは人気上昇。二十年に六代目三遊亭圓生とともに満州へ行き、二十二年に帰国してからは、八代目桂文楽とともに第一人者になった。三十二年から三十八年まで、落語協会の会長を務める。この間三十六年に脳出血で倒れたが、一年で復帰した。しかし往年の元気はなく、四十三年限りで高座を離れ、四十八年九月二十一日、八十三歳で亡くなった。



【四代目 柳亭 痴楽】

本名・藤田重雄
大正十年五月三十日、富山県で生まれた。幼少の時に東京へ出て、本所で育つ。初め豊竹巌太夫の内弟子となって、義太夫の修業をしたが、昭和十四年七代目春風亭柳枝に入門して笑枝と名乗り、落語家になる。十六年一月に師匠と死別し、大師匠の五代目柳亭左楽門下に移った。同年二つ目に昇進して、左楽と七代目柳枝の前名である痴楽を襲名する。 終戦後まもない二十年九月、痴楽のままで真打に昇進する。まもなく、三遊亭歌笑が爆発的な人気を得たが、二十五年五月に銀座でジープにはねられて急死する。その後釜の形で、「痴楽つづり方狂室」でたちまち人気者になった。「つづり方」と言っているが、歌笑の「純情詩集」同様七五調の形をとっており、本題に入る前に必ずこれをやって、爆笑をとっていた。 人気が出ると、一時寄席から離れたが、二十七年十一月に復帰、四十七年十月には日本芸術協会の理事長に就任し、いずれは会長にと期待されたが、四十八年十月、大阪で桂枝雀らの襲名披露に出演中脳溢血で倒れた。以後二十年近く、病院や老人ホームでの闘病生活に入る。平成五年八月にはテレビに出演し、十月には新宿末広亭での「痴楽を励ます会」にも出て、回復のきざしが見えたかと思われたが、同年十二月一日、急性心不全のため、七十二歳で亡くなった。



【五代目 柳家 小さん】

本名・小林盛夫
大正四年一月二日、長野県で生まれた。東京で育ち、剣道が好きだったので剣士になろうとしたが、身体をこわしたためにあきらめ、それなら落語家になろうと、昭和八年に四代目柳家小さんに入門した。 前座名は柳家栗之助。十一年に麻布第三連隊に入隊する。その年の二月二十六日、二・二 六事件が起こった。この時、知らないうちに反乱軍に入れられて、警視庁を占拠した。その罰の意味もあって、満州のチチハルへ行かされる。十四年に除隊して落語界に復帰し、二つ目に昇進して小きんと改名した。しかし十八年に再び兵隊に取られ、苦労する。二十一年に仏領インドシナ(現ベトナム)から復員して、三度び高座へ戻った。 二十二年九月九代目柳家小三治を襲名して真打に昇進。二十五年に師名 小さんを継ぐことができた。以来、一時代先輩の文楽、志ん生、圓生らと肩を並べて出演し、すっかり大看板の貫禄を身につけた。 それから四十数年、第一人者として活躍する一方、四十七年に落語協会の会長に就任し、二十四年の長い間その職にあった。平成七年には、落語家として初めての人間国宝に認定された。 平成十四年五月十六日、八十七歳で亡くなった。



【三代目 三遊亭 金馬】

本名・加藤専太郎
明治二十七年十月二十五日、東京で生まれた。大正元年、講釈師・揚名桃李の門に入ったが、講談をやると客が笑ってしまうので、落語家のほうが向いているといわれ、翌年初代三遊亭圓歌の弟子となった。本名の加藤をもじって、三遊亭歌当と名付けられ、歌笑で二つ目に昇進、大正八年に圓洲となり、同九年九月、同名で真打となった。同十五年四月、金馬を襲名した。 昭和四年にニットーレコードから出した「居酒屋」が大当りして、金馬の名はたちまち全国に知られ、人気者となる。九年に東宝名人会と出演契約し、これがもとで落語協会を除名された。以後東宝所属から戦後はフリーの道を歩む。戦後は寄席に出ないでもっぱらラジオで活躍し、年間出演回数は常に一位だった。 二十九年二月五日、釣りの帰りに列車にはねられて、左足の先を切断し、以後の高座は釈台を前に置いての板付きだった。三十九年夏、弟弟子の二代目円歌の死でショックを受けたのか、急速に衰え、同年十一月八日、七十歳で亡くなった。



【十代目 金原亭 馬生】

本名・美濃部清
昭和三年一月五日、東京で生まれた。父は五代目古今亭志ん生で、古今亭志ん朝は弟である。画家になるつもりだったが、戦争が激しくなったために果たせず、落語家に方向転換して、昭和十八年に父に入門した。もらった名前はむかし家今松。戦時下で落語家になる者がいなかったので、前座をやらずに二つ目からスタートした。しかし当時の前座は年寄ばかり、中には真打から落ちて来た人もいたので、働かない。前座の仕事ばかりか、古い前座の世話までさせられたので、かえって忙しかったという。 今松から志ん朝を経て、昭和二十二年に古今亭志ん橋で真打に昇進した。十九歳の真打は、戦後の最年少記録である。二十四年十月に、父の前名馬生の十代目を襲名した。二十一歳の若さで大きな名前を継いだので、親の七光りだと陰口を言われたが、黙々と努力を続け、次第に独特の芸風を作り上げて行った。 年齢とともに、少しずつ大きな噺をこなして行き、昭和四十年代には、先輩たちと並んでホール落語に常時出演し、大看板の仲間入りした。明治・大正生まれの戦前派と、戦後入門した人たちとの間にあって、貴重な存在だったが、五十七年九月十三日、五十四歳で亡くなった。



【六代目 三遊亭 圓生】

本名・山崎松尾
明治三十三年九月三日、大阪市西区で生まれる。幼いころに母と一緒に上京し、四代目橘家圓蔵の内輪になって、子供義太夫で寄席デビューした。芸名は豊竹豆仮名太夫。明治三十八年ごろだという。 明治四十二年に落語家に転向し、橘家圓童と名乗る。二つ目扱いだった。その後橘家小圓蔵を経て、大正九年に橘家圓好で真打に昇進した。満十九歳。八代目桂文楽より二ヶ月先に昇進したものの、人気でははるかに及ばない。以後ずっと、文楽の後塵を拝することになる。 大正十一年二月に師匠の圓蔵が亡くなり、母親の再婚で義父となっていた三遊亭圓窓が五代目圓蔵になった。それと同時に圓窓を襲名し、さらに大正十四年一月、義父の五代目圓生襲名とともに、師匠の名圓蔵を継いだ。 名前は大きくなったものの、芸のほうはさっぱりで、人気が出ない。一時は舞踊家に転向しようかと考えたほどだったが、昭和十六年五月に圓生を襲名してから、やや上向きになった。終戦の直前に、五代目古今亭志ん生とともに満洲へ行き、昭和二十二年三月に帰国、寄席に復帰した。 まもなく「妾馬」で芸を悟り、それからは著しい進歩を見せる。昭和三十年代には意欲的に独演会を開いて芸域を広げ、芸術祭賞をはじめ多くの賞を受けて、文楽、志ん生と肩を並べるようになった。昭和四十年から四十七年まで、落語協会の会長を務める。 昭和五十三年六月、真打の乱造に反対して落語協会を脱退し、一門で落語三遊協会を結成、独自の道を歩んでいたが、昭和五十四年九月三日、七十九歳の誕生日に心筋梗塞で急死した。

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