落語ホッと一息 らくごタイム
ホッと一息 らくごタイム
商品名 ホッと一息 らくごタイム
発売日 2014年07月02日
商品コード MICO-1063/4
JANコード 4571117353823
定価(税込) 3,056円
収録時間 DISC-1:70分18秒
DISC-2:70分36秒

笑ってストレス解消!!落語のリラックス効果でホッと気分転換。人気落語家や名人の熱演、一八番をたっぷり集めました!

落語には「笑える」「泣ける」「ジーンとする」等いろいろありますが、「落語を聞いて気分転換がしたい、ホッとしたい」という方に向けて、人気落語家の十八番や至高の名人芸を厳選したベストセレクションです。


解説付(演芸評論家 保田武宏)

イラスト:林家たい平


※このCDは、古い音源を使用しているため、お聞きぐるしい箇所がございます。あらかじめご了承下さい。また、一部不適切と思われる表現が用いられている場合がございますが、オリジナル性を尊重し、できるだけそのまま収録・編集いたしました。併せてご了承下さい。

★モノラル録音(DISC-2 ②を除く)

収録内容


    DISC-1
  1. 湯屋番(22分38秒)

     落語に出てくる若旦那には、あまりりっぱな人物はいない。この噺のほか、「紙屑屋」「船徳」など、道楽の末に勘当されて、出入りの職人の家などに居候をしている者ばかりである。居候をしていても、なかな改心しない。この噺の若旦那も、湯屋へ奉公するのは形だけの改心で、根は遊び人のままである。 この噺は、明治時代から盛んに演じられていた。しかし最近は、若旦那も居候も銭湯も、なじみがなくなってしまった。それだけ、この噺もやりにくくなってきた。たい平は、「川の流れのように」を歌ったり、「先月から市営バスが只になった」を入れたりして、現代にわかるように工夫をしている。 サゲにはいろいろある。通常は「はだしで帰します」だが、若旦那の独り言に見とれて「軽石で顔こすったんだ」というのもある。だが、たい平はサゲまでやっていない。サゲはそれほど重要ではなくなっているのである。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    林家たい平 [2005年1月30日 彩の国さいたま芸術劇場小ホール]

  2. 月給日(22分39秒)

    この噺は自作で、昭和二十七年に高座にかけた。客の反応を見ながら練り上げて、このような形にまとまったという。 この噺を作るために、わざわざ一週間ほど知り合いの会社に体験勤務して、実地調査の上でできた作品である。そういえば月給の明細票を別に作るところなどは、実際に調査しなければ気がつくことではない。 サラリーマンが、飲んでいるうちにだんだん酔ってくる。「だけどおとっつぁんの前だけど、僕はここの店は好きだよ。好きだけれども、殺風景だね。ばかな殺風景だよ、見てごらんよ」と言うあたりにそれがよく出ている。 サラリーマンの会話だけだと単調になりやすいので、最後のところで 田舎者のねえちゃんを登場させ、サゲをいわせているのはよい工夫だ。おもしろい噺だが、今は月給が振り込みになったので、月給日の感激が薄らいでしまった。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    三代目 三遊亭 圓歌(二代目 三遊亭 歌奴) [1966年1月1日 スタジオ録音]

  3. 浜野矩随はまののりゆき(24分52秒)

     講談から来た噺で、一時講釈師になったこともある五代目古今亭志ん生が「名工矩随」の題でやった音が残っている。講談では、五代目一龍齋貞丈、その息子の六代目貞丈、五代目の弟子の一龍齋貞鳳が、近年ではやっていた。圓楽は、貞鳳から教わっている。 圓楽は、この噺を講談とは違う人情噺に仕立てるのに、何度も試行錯誤をしている。貞鳳は、若狭屋が矩随に「死んでしまえ」と厳しく言うのは、酔った勢いだとしていた。しかしそれでは安易だ。これは若狭屋が、矩随に本当の情けをかけたのだと解釈した。その後また酔っ勢いに戻したりしている。母親が自害するところも、矩随が駆けつけると間一髪間に合って母親は助かるようにしたり、また本来の死んでしまう形に戻したりしている。 こうした苦心をした末に、圓楽は適当に笑いをとりながら、人間の生き様を描く優れた人情噺を作り上げた。その功績は大きい。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    五代目 三遊亭 圓楽 [1983年6月28日 四谷倶楽部]

    DISC-2
  1. まんじゅう恐い(14分31秒)

     元は中国の小噺で、それが江戸時代に日本へ来て江戸小噺となり、それをふくらませて一席の噺にした。上方にもこの噺があるが、中に二つ の噺が、アンコ入りのように挿入されているので、東京のよりずっと長く、たっぷりやると一時間かかる。 上方のに入っているのは、狐にだまされる噺と、身投げに出会った夢の噺である。狐にだまされるくだりは、風呂の帰りに狐に出会った男が、狐を殴り殺そうとする。狐が命乞いをして、助けてくれるなら人をだますところをご覧に入れると言う。それならと助けてやると、狐は若い娘に化けて、向こうから来た男を誘って二人で空家へ入って戸を閉める。助けてやった男は、中が見たいので、節穴から覗いたが、真っ暗で見えない。変だなと思ったら、馬の尻の穴を覗いていたという噺だ。これは東京では「九郎蔵狐」という一席の噺になっており、志ん生もやったことがある。身投げに出会った夢のくだりは、橋の上で身投げをする女を助けようとした男が、女がどうしても死ぬと言うので飛び込ませる。帰ろうとすると足音がして、先程の女が頭から血を出していた。「死にそこなったか」と女を川の中へ投げる拍子に自分も落ち、船に頭をぶつけて目から火を出し、その火で足を火傷したとたんに目が覚めた。やぐら炬燵は恐いぞ、という噺だ。 志ん生のは、江戸落語らしくさらっとしている。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    五代目 古今亭 志ん生 [1956年9月2日 NHK]

  2. 目黒のさんま(33分31秒)★

     「目黒のさんま」という噺は、落語に詳しくない人にも知られている。例え話としてよく使われているからだ。最近はそれがさらにエスカレートして、毎年九月には、目黒でさんま祭りが開かれるほどになった。産地直送のさんまを販売したり、落語家を呼んで「目黒のさんま」を聞かせたりしている。まるで目黒はさんまの本場みたいになってしまったが、本当はこの噺を聞けば分かるように、場違いのものを言ったのだ。 大名をからかった噺はかなりあるが、中でもこの噺は優れている。主人公の大名は、馬生は特に名を上げず、さる大名としている。三代目三遊亭金馬も同様だが、八代目林家正藏は、大名ではなく将軍でやっていた。 目黒には、現在さんまと明記した史跡はないが、爺々が茶屋跡に碑が建っている。JR山手線と目黒川の間にあるせまい坂道にあり、今の住所でいうと目黒区三田二丁目に当たる。爺々が茶屋は、地元の彦四郎という者が開いたもので、三代将軍家光が鷹狩りの折に立ち寄って、「じい、じい」と呼んだので、この名がついたと言われている。ここか、中目黒あたりが、さんまを食べた場所とされている。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    十代目 金原亭 馬生 [1975年5月27日 上野本牧亭]

  3. 子はかすがい(22分24秒)

     「子別れ」という噺は、長いので上中下に分けられている。 その「下」の部分が、この噺である。 「上」は、別名「強飯の女郎買」と言われている。飲んだくれの大工の熊五郎、吉原近くの弔いへ行き、酔って帰る途中で、紙屑屋を誘って吉原へ繰り込む。店の者に、弔いで貰った強飯を食え、などと言っているうちに、敵娼が決まる。 「中」は、別題はない。ここだけを独立させて演じることは、まずないからであろう。弔いの日から吉原に居続けをした熊五郎は、四日目に家へ帰る。夫婦喧嘩が始まり、女郎とののろけ話をしたので、女房は怒って子供を連れて家を出ていく。熊五郎は女郎を連れ込んで、一緒に暮らしたが、うまくいかずに女郎とも別れる。 「下」の部分は、一番人情がかったところで、ヤマ場になっている。圓生の演じる子供は秀逸で、父親も母親も描写が的確なので、笑いの中でほろっとさせられる。

    【解説】演芸評論家:保田武宏

    六代目 三遊亭 圓生 [1960~62年頃 鈴本演芸場]



プロフィール


【林家 たい平】

本名・田鹿 明
昭和三十九年十二月六日、埼玉県秩父市で生まれる。武蔵野美術大学造形学部を卒業後、昭和六十二年春に林家こん平に入門する。翌六十三年八月、林家たい平で前座に登録される。平成四年五月、二つ目に昇進。平成十二年三月、真打となる。新しいセンスのあふれた高座で頭角を現し、病気療養中の師匠こん平に代わって日本テレビの人気番組「笑点」のレギュラーとなって、現在も活躍中。CDは、コロムビアから「たい平よくできました」、「たい平落語」シリーズなどを出している。



【三代目 三遊亭 圓歌(二代目 三遊亭 歌奴)】

本名・中沢 信夫
昭和四年一月十日、東京で生まれた。岩倉鉄道学校を出て、国鉄(当時は運輸省)に入り、新大久保の駅員を務める。 戦後まもなく、二代目三遊亭円歌に入門し、歌治と名乗る。昭和二十四年九月、師匠の前名歌奴をもらって、二つ目に昇進した。三十年ごろから、「授業中」などの新作で人気上昇し、三十三年四月、歌奴のままで真打になった。 以後爆笑落語で、「どうもすいません」の林家三平とともに人気を持続し、四十五年十月、圓歌の三代目を襲名した。六十二年に、落語協会の副会長に就任、平成八年八月、五代目柳家小さんの後を受けて、会長となった。 一時病に倒れたが、仏門に入っていたお陰か見事に回復、現在も活躍を続けている。 先代同様、古典と新作の両刀使いで、最近では「中沢家の人々」などの新作と、「坊主の遊び」などの古典を得意にしている。 弟子には歌司、歌之介、歌る多、若圓歌、歌武蔵に、三味線漫談の小円歌らがいる。



【五代目 三遊亭 圓楽】

本名・吉河 寛海
昭和八年一月三日、東京・浅草で生まれる。実家は易行院 (助六寺) という寺で、現在は足立区に移転している。高校時代に胸部疾患で療養している間に落語の魅力に取り付かれ、昭和三十年二月、六代目三遊亭圓生に入門して、三遊亭全生と名乗る。三十三年三月に全生のまま二つ目に昇進、三十七年十月には、五代目三遊亭圓楽を襲名して、真打になった。それからは、マスコミに乗って売れっ子になり、「星の王子さま」などのキャッチフレーズで人気を得た。一時落語がおろそかになったが、再び落語に精進するようになり、昭和五十三年、師匠の圓生が落語協会を脱退したのに同行、寄席とは決別した。翌五十四年に師匠が亡くなった後も落語協会には戻らず、自分の弟子たちと独自の行動をとる。 六十年に、東京都江東区東陽町に寄席「若竹」を作ったが、五年で閉鎖した。以後テレビの人気番組「笑点」で、大喜利の司会を長く務めるとともに、全国津々浦々で実演活動を行い、独自のスケールの大きい芸を見せていた。体調を崩して平成十九年二月に引退を表明、二十一年十月二十九日、七十六歳で亡くなった。



【五代目 古今亭 志ん生】

本名・美濃部 孝蔵
明治二十三年六月二十八日、東京で生まれる。明治四十三年ごろ、二代目三遊亭小圓朝に入門し、朝太と名乗る。飲む、打つ、買うの三道楽のために苦しい生活が続く。借金取りから逃げる意味もあって、次から次へと名前を変えた。昭和十四年に志ん生を襲名するまでに、改名すること十七回。師匠も小圓朝から六代目金原亭馬生、講談の三代目小金井芦州、初代柳家三語楼と変えたが、さっぱり芽が出なかった。昭和九年に馬生を襲名してから、ようやく日が当たってきて、志ん生になってからは人気上昇。二十年に六代目三遊亭圓生とともに満州へ行き、二十二年に帰国してからは、八代目桂文楽とともに第一人者となった。三十二年から三十八年まで、落語協会の会長を務める。この間三十六年に脳出血で倒れたが、一年で復帰した。しかし往年の元気はなく、四十三年限りで高座を離れ、四十八年九月二十一日、八十三歳で亡くなった。



【十代目 金原亭 馬生】

本名・美濃 部清
昭和三年一月五日、東京は笹塚で生まれた。父は柳家ぎん馬 (後の五代目古今亭志ん生) で、十歳下の弟は古今亭志ん朝である。 画家になるつもりだったが、戦争が激しくなったこともあって果たせず、落語家に方向転換して、昭和十八年に父に入門した。戦時下で落語家になる者がいなかったので、むかし家今松の名で前座をやらずに二つ目からスタートした。しかし当時の前座は年寄りばかり、中には真打から落ちてきた人もいたので、動かない。二つ目とは名ばかりで、前座の仕事から、古い前座の世話までさせられたので、かえって忙しかったという。今松から初代志ん朝を経て、昭和二十二年に志ん橋で真打に昇進した。十九歳の真打は、戦後の最年少記録である。二十四年十月に、父の前名馬生の十代目を襲名した。二十一歳の若さで大きな名前を継いだので、親の七光りだと陰口を言われたが、黙々と努力を続け、次第に独特の芸風を作り上げていった。 年齢とともに、少しずつ大きな噺をこなしていき、昭和四十年代には、先輩たちと並んでホール落語に常時出演し、大看板の仲間入りした。 明治・大正生まれの戦前派と、戦後入門した人たちとの間にあって、貴重な存在だったが、昭和五十七年九月十三日、五十四歳の若さで亡くなったのは惜しまれる。



【六代目 三遊亭 圓生】

本名・山崎 松尾
明治三十三年九月三日、大阪で生まれる。母と一緒に幼いころ上京し、四代目橘家圓蔵の内輪になって、子供義太夫でデビューした。芸名は豊竹豆仮名太夫。 明治三十八年ごろだという。落語家に転向したのは明治四十二年橘家圓童と名乗った。 小圓蔵を経て、大正九年三月に橘家圓好で真打に昇進した。同十一年二月に師匠の圓蔵が没し、義父の圓窓が圓蔵を襲名したので、同時に圓窓と改名した。さらに同十四年一月、義父の五代目圓生襲名とともに、師匠の名圓蔵を継いだ。 名前は大きくなったが、芸の方はさっぱりで、人気が出ない。一時は踊りに転向しようかと考えたほどだったが、昭和十六年五月に圓生を襲名してから、やや上向きとなった。終戦の直前に、志ん生と一緒に満州へ行き、二十二年三月に帰国した。まもなく「妾馬」芸を悟り、それからは著しい進歩を見せて、文楽、志ん生と肩を並べるようになった。四十年から四十七年まで、落語協会の会長を務めたが、五十三年六月、真打の乱造に反対して落語協会を脱退し、一門で落語三遊協会を結成したが、一年後の五十四年九月三日、七十九歳の誕生日に心筋梗塞で急死した。

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