落語落語名作集~笑いの玉手箱~
落語名作集~笑いの玉手箱~
商品名 落語名作集~笑いの玉手箱~
発売日 2016年11月20日
商品コード MITE-1021/2
JANコード 4571117354530
定価(税込) 2,200円
収録時間 DISC-1:70分37秒
DISC-2:71分58秒

言わずと知れた落語の名人によるとっておきの落語集。笑いあり、涙あり、バラエティーに富んだ6席です。


解説付(演芸評論家 花井伸夫)


※一部、今日では不適切と思われる表現を含む作品もございますが、落語の芸術性に鑑みそのまま収録しています。また、録音状態により音質が不安定な部分がございますが、御了承下さい。

★モノラル録音

収録内容


    DISC-1
  1. 源平(25分32秒)上野鈴本ライブ

     冒頭から「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・・・」と「平家物語」の格調高い名文 が語られる。が、そこから噺はあっちへ飛びこっちへ飛ぶ。三平自身が「源平盛衰記」と言っているように、正式には盛衰記なのだが、“三平バージョンはギャグ・ダジャレ編”と言える。弾むような声、客席のあちこちへ重点的にサービスする姿勢の変化は、まさにアクション落語で、動きまでが目に浮かぶ語り口である。 落語の世界で言う"地ばなし"で、本来は講談だが、父である七代目林家正蔵が落語に取り入れ、育て上げたという説もある。三平絶頂期の四十代後半、上野鈴本演芸場での収録で、若いころ、古典に進むか新作かで悩んだ三平が、実は古典もしっかりと出来ることを爆笑の中で、なるほどと感じさせてもくれる。後年、さらに古典の三平風料理に情熱を傾けた爆笑王だが、その片鱗はこの演目にも十分にうかがえる。奢る平家は久しからずから平家追討、壇ノ浦の戦い、時子姫のくだりなど本筋があったのかと思い出させてくれるほどの“アンコ”満載の中で、「踊る平家は久しからず」のサゲまで、落語話芸はエンターテイメントを実践している一席と言えようか。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    初代 林家 三平

  2. 浪曲社長(25分19秒)

    この「浪曲社長」と「授業中(別称・山のあな・・・)」、「月給日」の新作三作は三代目三遊亭圓歌の初期の代表作で“山のあな・三部作”とも呼ばれている。いずれにも吃音者が出てくるのが特徴で、自身が吃音者で、矯正のため浪曲や落語を修行した若き日の体験が生きている。 原作とも言える体験的漫談調の高座は、一九四八(昭和二十三)年に二代目三遊亭歌奴で二ツ目昇進したころから繰り広げており、その可笑しさが評判となり、研鑽もあって数年後にはそれぞれの演目として完成されていく。これは歌奴のまま真打昇進して超売れっ子となり、落語家としての大きなピークを迎え七十年に三代目圓歌を襲名したころの上野鈴本での実況録音盤。新作派の旗手として、また人気者として落語界を引っ張ってきた勢いや若々しい、達者な口跡は健在。自負心と自信に満ちた一席となっている。お楽しみどころだ。 趣味や道楽にもいろいろあると、たっぷりとマクラを振っての導入部。場面の転換、社長と新入社員たちの初めての面接の言葉の遣り取りと“節(ふし)”の妙で爆笑を誘う。圓歌は実際にも昭和浪曲界の大看板・木村若衛の許で修業、木村歌若の名も持っている。浪曲界では、太い、通る声の持ち主を“筒が良い”と言い、もちろん圓歌もそう言われた。身長一メートル五十四センチと小柄な圓歌の、大きな高座ぶりが伝わってくるような歯切れのよい声。テンポよく物語を進めながら、不意に改名前の本名・中沢信夫という名の本格浪曲を演じる新入社員を登場させるサゲ直前のアンコがなんとも楽しい。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    三代目 三遊亭 圓歌(二代目 三遊亭 歌奴)

  3. 一文笛(19分46秒)

     上方落語の戦後復興の祖の一人であるベテラン桂米朝があるとき、しみじみと言ったこと がある。「新作もようけ(沢山)作りましたが難しい・・・・・。これならいいかなと思えるのは“一文笛”くらいでっしゃろかな」と。その時々の演者が、その時々、自分の個性と相まって受ける一代限りの新作は、実は洪水のように生まれている。が、他の演者たちにも受け継がれ歴史を生き残り、古典としても通用する新作は極端に少ない。「一文笛」は今や九代目林家正蔵ら東京の落語家も演じるほどに成長した米朝の新作の代表作である。 米朝は、これを三十代で作り、四十代で磨き上げて完成させ、壮年期で録音に挑んでいる。 若々しい張りと艶と格式のある声。物語の時代を「明治の頃の古いお話で」と冒頭でさりげ なく振っているのは、スリ(掏摸=隠語でチボ)が、 その場の優しさで貧しい男の子に一文笛 を掏って懐に忍ばせてやったことから、男の子が泥棒呼ばわりされ、元は武士だった父親が 嘆き悲しみ怒って首をはねるとまで言いだす部分があるからである。 時事的なマクラを振らずに、スッと本題へ入り、名人気質を競うスリの様子が生き生きと 描かれる。足を洗えと心替えを勧める兄貴分。その兄貴分の長屋で、スリが良かれと思って 子供にしてやったことが徒になる。無実を訴えて井戸に身を投げた男の子の運命は? 秀と 呼ばれるスリが再び子供のためにしたことは? 意表を突くサゲ、オチにホッと笑顔が生まれるに違いない。昭和の上方、人情噺の名作である。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    三代目 桂 米朝

    DISC-2
  1. 授業中(22分45秒)

     新作落語は、その大半が演者とともに冥土名人会へと旅立ってしまうほど果敢ないが、それだけに時代状況を最も反映しており、演者は生きている限り、時代に合わせて刻々と進化発展させていく。三代目三遊亭圓歌の「授業中」は、今では滅多に演じられないが、そのエッセンスは、例えば代表作「中沢家の人々」の今の演じ方の中にチラリとはめ込まれていたりするのである。一九六七(昭和四十二)年七月のスタジオ録音盤だが、中で「もう二十三年もやってるんだよ」と言っていることから、このネタを、戦後すぐに二代目圓歌に入門したころから温め育ててきたことが分かる。一年計算が合わないのは、恐らく数え年で言っているからで、このときはまだ人気絶頂の二代目三遊亭歌奴だった。戦前の授業風景との比較対照の中で、すぐに戦後復興期の活況の中での授業風景へと移る。義務教育の前に、幼稚園へ通うことがもう当たり前になっていた時代だ。極端に地方訛りの激しい新任の先生生徒たちとの交歓風景はバラエティーに富んで出色の面白さ。これを楽しんで、現在の落語協会最高顧問・圓歌の高座に接すれば、その声質の今も変わらぬ若さに驚くことだろう。そして同時に初代林家三平らと競うようにして、まずラジオで楽しまれテレビ時代の到来とともに、最も早く爆笑落語家として全国的人気を得た売れっ子が、若いころから達者な活舌、落ち着き、堂々とした高座ぶりであったことにも思いは至る。三代目は、少年のころ吃音であったが、それを矯正するために入った落語の道で天才的なまでに変身、開花した落語家なのである。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    三代目 三遊亭 圓歌

  2. 祇園祭(27分46秒)★

     「江戸っ子は口先ばかりで腸(はらわた)はなし……」 と、五代目古今亭志ん生は、スッとマクラに入っていく。天衣無縫の芸と言われ、名人と評されて、今もなお多くの落語ファンがレコードで、CDでその芸を楽しんでいるが、この「祇園祭」は珍しく最初から、きちっとした枠組みの中で語られている。何故か? それはこの噺には八代目桂文治《一九八三(明 治十六)年一月二十一日~一九五五 (昭和三十)年五月二十日》という“お手本”があるからである。八代目文治他界後に、この噺の面白さ、楽しさを最も体現してきたのが五代目志ん生なのだが、実は口演回数は驚くほど少なく、そんなこともあってテイチクからのたっての依頼で五代目志ん生が収録に臨んだのだった。時は一九七六 (昭和五十一)年の暮れ。長編を志ん生は、見事なまでに刈り込み、再構築して、一等独自性に満ちた「祇園祭」にしている。演じるたびに中身が違うとまで言われた自在な演じ方の志ん生が、実は、こんなにきっちりとした落語を演じていることに大方は驚かれることだろう。「三人旅」のような第一段落、京言葉と江戸弁との対比を軸にした湯(京都では風呂)屋探しの第二段落、そして東と西の自慢合戦の祇園祭という第三段落。楽しんで、実は名人・志ん生は、こうした楷書体の芸を背景に、やがて「えぇ~」とか「・・・・・はぁ」とか奇妙奇天烈な言葉を挟んだりして、その間(ま)や一瞬の言葉で大爆笑を生む演者としての快感を覚え、ふんわりとした草書体の話芸へと至ったことに思いを馳せると、芸の懐を感じる一席だ。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    五代目 古今亭 志ん生

  3. はてなの茶碗(21分27秒)

     二十一世紀に入った今も、三代目桂米朝は、この「はてなの茶碗」を得意演目の一つとして演じ続けている。そればかりか、この噺は一九六七(昭和四十二)年夏の収録だが、最近の「はてなの茶碗」と比べてみても、その声、演じ方までがほとんど同じであることに驚嘆することだろう。分かりやすい大阪弁は、ときに標準語と間違えそうなほどなのも、少しも変わっていない。三代目米朝の芸が上方落語の教科書と言われる所以である。上方落語は、実は戦中に絶滅寸前の状態で、戦後すぐには上方落語家自体が十人にも達しないほど窮地に陥っていた。その状況の打破のために、三代目米朝は文字通り全国落語行脚を続けたのだった。その時、自然に身についていったのが、分かりやすい標準語のような大阪弁だったのである。戦後すぐの交通事情や、テレビもない時代であったことを思えば、それがいかに大変なことであったか分かる。「はてなの茶碗」では、大変な目利きと評判の京都の茶道具屋の主人・金兵衛(通称・茶金)の京都弁と、その金兵衛が“はてな?”と首を傾げたのだから、これは大変な値打ちものと踏んだ男の大阪弁との、やりとりの妙。何の変哲もない湯呑茶碗が、どんな経緯で何千両もの珍品に育っていくかなどをじっくりと楽しみたい一席だ。三代目米朝は一方で新作活動も続けてきて、「一文笛」はその代表作。米朝の持ちネタは驚くほど多く、多様なジャンルの落語を自家薬籠のものとしているが、平成二十年、米朝の師匠だった桂米團治の五代目を襲名、復活させた長男・小米朝いや五代目桂米團治がその芸を踏襲、発展させていくことになるだろう。目出度い年の翌年の三代目米朝の代表的演目の復刻である。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    三代目 桂 米朝



プロフィール


【初代 林家三平(はやしや・さんぺい)】

本名・海老名泰一郎(えびなやすいちろう)
一九二五 (大正十四)年十一月三十日、七代目林家正蔵(当時は七代目柳家小三治)の長男として東京・台東区根岸に生まれる。七代目小三治はその前に柳家三平を名乗っており、もう一人柳家三平がいたので、泰一郎の長男・林家こぶ平の九代林家正蔵(海老名家では“目”をつけない) 襲名を機に、これまでの三代目から“初代林家三平”と代号、呼称を統一している。二○○九(平成二十一)年に次男のいっ平が二代林家三平を襲名することもあって統一は後世の落語界のためにもいいことだろう。泰一郎の初代は、終戦後、当時の七代目正蔵の元で主に東宝名人会で前座見習いとして働き、一九四九(昭和二十四)年に父が他界したのに伴って二代目橘家圓蔵門下に移籍、正式に落語協会で前座修行を続けた。名人上手たちが感心するほどの働き者で、五十一年、そのままの名で二ツ目に昇進。五十年代中頃から「ドーモスイマセン」などのヒットフレーズなどを多用した新作の旗手として時代の寵児に。二代目三遊亭歌奴(現・三代目圓歌)とともに二ツ目ながらトリを務めるという快挙を成した。五十八年、そのままの名で真打。一九六二(昭和三十七)年の創作落語研究会旗揚げに参画。以後、昭和の爆笑王の道をひた走り、一九八○年九月二十日に早世した。



【三代目 三遊亭 圓歌(さんゆうてい・えんか)=二代目 歌奴(うたやっこ)】

本名・中沢円法(なかざわ・えんぽう)
本来は信夫だったが、日蓮宗の得度名円法を戸籍上も本名に変えている。 一九三二(昭和七)年一月十日、東京・向島生まれ。これは戦時に役場が焼失、戦後に届け出たときにお婆ちゃんが記憶間違いしたもので、実際には漫画家・滝田ゆうと同級生だったので一九二九(昭和四)年生まれと、本人が落語協会に申告、仲間内にはこちらの年齢で通っている。岩倉鉄道学校(現・岩倉高校)に入学後、学徒動員で山手線新大久保駅員となる。一九四五(昭和二十)年に吃音矯正を目的に二代目三遊亭圓歌に入門して歌治、一九四八(昭 和二十三年、師匠の前名・歌奴で二ツ目。直後から数年後に「授業中」などの爆笑新作落語として完成する新作群のエッセンス落語で人気者となり、初代林家三平とともにテレビ創世記の寵児に。木村若衛の弟子として浪曲も修行し、木村歌若の浪曲師名も持っている。これが節(浪曲)入り「浪曲社長」の確立につながった。一九五八(昭和三十三)年四月、歌奴のままで真打昇進。人気はさらに上がり、一九七〇(昭和四十五)年十月、三代目圓歌を襲名した。高齢化社会を先取りしたような「中沢家の人々」などは、一種、ノンフィクション性を帯びた爆笑新作の傑作として名高く、今も、少しずつ時代に合わせて改作されて、永遠の新作と化している。一方で古典修業も怠りなく、筒(=のど)の良さもあって今も若々しい「坊主の遊び」などを展開する。一九九六(平成八)年に五代目柳家小さんの後を受けて八代目落語協会会長、二〇〇六(平成十八)年から最高顧問。



【三代目 桂 米朝(かつら・べいちょう)】

本名・中川清(なかがわ・きよし)
一九二五 (大正十四)年十一月六日、満州・大連生まれ。家族とともに帰国し、以後、出身地は兵庫県姫路市に統一している。一九四三(昭和十八)年、大東文化大学在学中に演芸評論家で作家の正岡容門下となり、それが縁で四十六年九月に四代目桂米團治に入門。同十月に三代目桂米朝の名跡を授けられる。初高座は「高津の富」。戦後、数人にまで激減した上方落語家と、絶滅寸前だった上方落語を、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝、三代目桂春團治らとともに立て直してきた逸話はあまりにも有名。五代目柳家小さん亡き後唯一の落語界の人間国宝。芸は東の故六代目三遊亭圓生と好対象を成す博識洒脱な百科全書派で持ちネタ、新作とも数量、充実は群を抜いている。ひ孫弟子まで含めると一門は六十人以上。息子の明(あきら。一九五八年生まれ)が小米朝として活躍、二〇〇八(平成二十)年、父の師匠だった米團治の五代目を襲名した。



【五代目 古今亭 志ん生(ここんてい・しんしょう)】

本名・美濃部孝蔵(みのべ・こうぞう)
一八九〇(明治二十三)年六月五日から一九七三 (昭和四十八)年九月二十一日。神田亀住町の生まれで、直参旗本の出を誇りとしたが、酔生夢死、酒と芸をこよなく愛し、このため生活は長いこと貧しく、長屋住まいを転々、俗に《なめくじの志ん生》と呼ばれた。一九一〇 (明治四十三)年頃、 二代目三遊亭小圓朝(四代目橘家圓喬という説もある)に入門して三遊亭朝太。三遊亭圓菊で二ツ目昇進して以後、古今亭馬太郎、全亭武生、吉原朝馬、隅田川馬石、一九二一(大正十)年に六代目馬生門下から今原亭馬きんで真打、古今亭志ん馬、講釈師に転じて小金井芦風、同二六(大正十五)年に噺家に戻って古今亭馬生、さらに初代柳家三語楼門下に移籍して柳家東三楼、柳家ぎん馬、柳家甚語楼、再び古今亭志ん馬と復名して、一九三四(昭和九)年に七代目金原亭馬生、一九三九(昭和十四)年に五代目古今亭志ん生と十六回もの改名と引っ越しを繰り返したのは、芸の心機一転と借金の取り立てからの回避であったという。しかしその芸は天衣無縫、人情の機微に富み、まさに名人芸への道を進んだ。八代目桂文楽と並び称される不滅の金看板である。一九五七(昭和三十二)年に落語協会会長。同六一年師走十五日の読売巨人軍優勝祝賀会でのご祝儀芸の際に脳溢血で倒れ、一時復帰したが、長いリハビリ、療養生活は一九七三(昭和四十八)年晩夏までとなった。戒名は松風院孝誉彩雲居士。長男はいぶし銀の魅力で知られた十代目金原亭馬生、次男は平成の名人・三代目古今亭志ん朝。

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