落語わたしたちの好きな落語集~ちりとてちん
わたしたちの好きな落語集~ちりとてちん
商品名 わたしたちの好きな落語集~ちりとてちん
発売日 2017年03月22日
商品コード MITE-1023/4
JANコード 4571117354561
定価(税込) 2,750円
収録時間 DISC-1:65分47秒
DISC-2:77分31秒

テレビで人気の圓楽、吉弥らによる滑稽噺&人情噺!!落語のリラックス効果に焦点を当て、滑稽噺と人情噺のみで構成した落語集。


解説付(布目英一)

イラスト・中西らつ子


収録内容


    DISC-1
  1. ちりとてちん(21分42秒)二〇〇七年十一月録音

    笑いが多いのでアマチュア落語家も演じたがる演目です。ところが勘所を押さえて演じないと、とても後味の悪い落語になってしまいます。如才なく世辞を並べている金さん。この人は旦那に御馳走になりたい一心で調子のよいことばかり言っている、うわべだけの人かも知れません。一方、知ったかぶりをし、何事もけなす竹さんもよい性格とは言えません。また、腐った豆腐を食べさせようとする旦那も悪ふざけが度を過ぎており、意地悪です。というように登場人物すべてがいやな人間になってしまうのです。 さらに最後の腐った豆腐を食べる場面。もがき苦しむ様子が笑いを誘うので、つい大げさに演じがちです。飲み込んだものが逆流してくる様子を誇張して演じる落語家もいます。大爆笑になるので何回も繰り返すこともあります。悪趣味とは思いませんか。 吉弥は登場人物が皆、明るく、愛敬があります。最後のもがき苦しむ場面も軽く演じています。こうした演出により、好感の持てる落語に仕上がっています。この落語は簡単に笑いが取れるように見えて、実はかなり難しい落語なのです。 

    【解説】布目英一

    桂 吉弥

  2. 粗忽の釘(17分01秒)二〇〇四年二月録音

    「粗忽」には「軽はずみなこと。そそっかしいこと」という意味があります。この噺の主人公は金づちで打った指を間違えてしまいます。そそっかしいからといってそんなことをするでしょうか。また壁に釘を打ち込んだことをわびるため、路地をはさんだ向かいの家に行きます。こんなこともありうるでしょうか。 この落語はこんな人がいたら迷惑だけども、はたで見ていたら面白いという観点で作られています。主人公の性格はまったく違いますが、フーテンの寅さんのようなものです。寅さんはいつも騒動ばかり起こし、けんかもするけれども、けんか相手のタコ社長とも心はつながっていて、なぜかほっとさせられる人物です。この主人公にもそのようなところがあります。あきれるような行動ばかりしていますが、無類の人柄のよさを感じます。そして女房とのなれそめの話には馬鹿馬鹿しさだけでなく、ほのぼのとしたものも感じます。寅さん同様、愛すべき人物です。 圓菊は独特の抑揚のついた語り口と間の取り方で、明るく楽しい一席に仕上げています。また、なれそめの話ではトーンを変えて趣を添えています。 「粗忽」には「不注意なために引き起こしたあやまち」という意味もあります。この演目ではこのような意味で「粗忽」という語を使っているのでしょう。

    【解説】布目英一

    古今亭 圓菊

  3. 薮入り(27分04秒)二〇〇九年三月録音

    「薮入り」とは正月とお盆の時期の十六日に奉公人に与えられた休日を言います。家に帰る者も多かったので「宿入り」と言ったのがなまったとも、田舎へ帰ることから草深い所へ行くという意味とも言われています。現在は仕事の効率化のためにも休暇が必要と考えられていますが、一年のうち数日しか休日がないということが明治以降にも続きました。また奉公は福團治が述べているように「十に満たないあどけない子供」の頃から始まるので、休みを取らせると、子供自身が店に帰りたがらなかったり、親が「そんなにつらいのなら」と帰さなかったりするので、初めの三年は休みが与えられないこともありました。 この落語の設定の見事な点は成長がめざましい時期に三年も会わずにいた息子と両親が再会するという点です。子供っぽかった我が子が大人びて帰ってくるのですから、親としてはこれほどの感動はなかったと思います。 東京落語でも演じられていますが、三代目三遊亭金馬の口演が絶品だったため、皆、その影響が感じられます。しかし福團治の口演には影響は皆無です。三年前にベそをかきながら奉公に出かけた息子でしたが、今は親に土産を買ってくる気遣いも見せます。土産に選んだのは昔食べさせてもらっておいしかったまんじゅうでした。また「おじいちゃんが生きてましたら(孫の成長を見て)喜びましたろな」と母親がつぶやくなど金馬とは異なるエピソードの連続でほろりとさせる演目に仕上げています。

    【解説】布目英一

    桂 福團治

    DISC-2
  1. ぜんざい会社(19分42秒)二〇〇七年十月録音

     上方落語でも東京落語でも演じられている演目です。お役所仕事を風刺する内容ですが、元となる落語は戦前に作られており、戦後、今のような形に直されました。関東では粒あんでも、こしあんでもお汁粉といいますが、関西では粒あんがぜんざい、こしあんがお汁粉と区別しています。また関東でぜんざいと言えば、汁のないものを指します。このように関東と関西ではぜんざいという語の指す内容が異なりますが、この演目では東京落語でも粒あんのお汁粉をぜんざいとして演じています。何気なしにぜんざいを食べようとしたら、面倒くさい書類の手続きが必要な上に窓口をたらいまわしにされ、もっともらしい名目をつけて手数料を取られる羽目に。現実にありそうな真実味が漂い、今も昔も人気の高い落語です。 とんでもない体験をさせられた主人公の男性は演じ手によって名が異なります。実は落語家の本名が使われていることが多いのです。春之輔はカワイアキラで演じています。春之輔の師匠の三代目桂春団治の本名は河合一、春之輔の本名は山城彰ですから、二人の名を合体させたものと考えられます。

    【解説】布目英一

    桂 春之輔

  2. 千早ふる(25分23秒)二〇〇八年六月録音

     小倉百人一首の在原業平の歌「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 唐紅に 水くくるとは」を題材にした落語です。落語では「千早ぶる」でなく「千早ふる」、「水くくるとは」ではなく「水くぐるとは」としております。その理由は珍解釈をしやすくするためです。落語は歴史的なものごとを扱ったりしますが、すべてが事実通りというわけではありません。娯楽として楽しんでいただくために誇張や脚色を加えることがあります。例えばお金。一両は現在の価格に直すと七万円くらいから十数万円に相当するそうです。ですから謝礼の金額として「一両を渡す」という表現は成り立ちます。というより、これでもじゅうぶん過ぎる金額ではないでしょうか。しかしインパクトに欠けるので「百両を礼金に」などという表現になることがあります。一千万円ほどの礼金なんて現実にはあり得ないわけですが・・・。 さて、「千早ぶる」の和歌の本来の意味は「神代の昔でさえもこんなことは聞いたことがない。龍田川に紅葉が浮いて真っ赤に水をしぼり染めにしているとは」というもので、川が紅葉で真っ赤になっている様子を表しています。落語の珍解釈の方がよっぽど面白いと思いませんか。

    【解説】布目英一

    桂 吉弥

  3. 明烏(32分26秒)二〇〇九年十月録音 ※三遊亭楽太郎時代の録音です。

     「明烏」は明け方に鳴く鳥のことで、男女の愛を邪魔するものという意味もあります。この落語は新内「明烏夢泡雪」の人物名を借りてできていることから、このような題名がついたと言われています。 江戸の中心である日本橋に店を構える日向屋の跡取り時次郎は二十歳を過ぎているのに子供たちと太鼓をたたいて喜び、地主の息子という立場を忘れて借家人のところでおこわを三膳もおかわりをして平然としています。さらに親から「源兵衛、多助は札付きだから」と言われたのをそのまま本人に伝えています。父親は「うちの息子は堅過ぎる」と述べていますが、それは親のひいき目であり、幼すぎるという見方が正しいでしょう。読書で得た知識がまったく日常生活に生かされておらず、このままでは後継者として不適格です。父親はそれが心配で、会う人についこぼしてしまうのです。源兵衛と多助はそこにつけ込んで遊興費を払わせようという魂胆と吉原に連れて行ったらどんなことになるだろうという面白半分から時次郎を誘っています。 遊郭のしきたりであるカクホウは「廓法」と書きます。「大引け過ぎ」は営業を終える時刻。今の午前二時頃にあたります。朝の場面で「房楊枝もらって洗面行って」とありますが、房楊枝は歯ブラシとして使われました。

    【解説】布目英一

    六代目 三遊亭 圓楽



プロフィール


【桂 吉弥】

二〇〇七年のNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」で落語家徒然亭一門の一番弟子徒然亭草原を演じていたのをご存じの方も多いと思います。草原は気が弱くて憎めない、親しみを感じる人物でした。ご本人も気さくな方です。現在は土曜の昼に放送している「生活笑百科」などに出演していますが、明るくて楽しい姿が拝見できます。その姿を見たさに、この番組を欠かさずに御覧になっている方も多いと思 います。 演じる落語も明るさに満ちています。それにきれいです。若くして亡くなった師匠の桂吉朝も品のある美しい高座を見せてくれました。その芸風がとてもよい形で継承されております。見た目の美しさだけでなく、声もよく、唄声にも魅力があります。 早くから頭角を現し、芸術選奨文部科学大臣新人賞、文化庁芸術祭新人賞など多くの賞に輝いています。 独演会は売り切れ続出。特に女性客に人気があります。上方落語家ではありますが、活動は関西にとどまらず、全国規模。東京でもかなりの頻度で公演を見ることができるのはありがたいことです。これからの落語界をけん引する人物です。



【古今亭 圓菊】

体をよじり、口元に手を当てるコミカルな仕草、圓菊節とも呼ばれた独特なイントネーション。古今亭圓菊の特色といえば、まずこの二点をだれもが挙げるでしょう。実は圓菊節はなまりを克服しようとして生まれたものだそうです。欠点をだれにも真似ができない長所に変えたのです。たやすいことではありません。 真打になりたての頃は、病気だった師匠古今亭志ん生をおぶって献身的な世話をしたご褒美で真打にさせてもらった「おんぶ真打」だと陰口をたたかれました。その悔しさをバネにして先人のコピーではなく、圓菊ならではの芸を作り上げました。その芸にひかれる落語家志願者も多く、十三人の弟子を育てています。さらに弟子たちに「評価を受ける落語家になるように精進しろ」と助言もし、多くの弟子が文化庁芸術祭に参加して賞にも輝いています。 晩年は今まで以上に芸に軽さが出てきて、志ん生を思わせる味わいが醸し出され、ファンをとりこにしました。特に「唐茄子屋政談」は絶品で、笑わせたり、しんみりさせたりして堪能させました。二〇一二年の秋、八四歳で逝去されています。



【桂 福團治】

若い頃はギャグを一つ言うと「ペケペン!」と合いの手を入れる「ペケペン落語」で売り出したり、明治時代に活躍した落語家桂馬喬の芸に対する執念を描く映画「鬼の詩」で馬喬を演じて高い評価を受けたりして活躍していました。ところが声帯ポリープを発症し、声を失う悲劇に見舞われました。これが手話落語に取り組むきっかけとなりました。幸い声は回復しましたが、現在も手話落語を続けるとともに視覚障害の弟子も取っています。また次男を病気で亡くす悲劇にもあいました。このような苛酷な人生経験により人間の奥底からにじみ出る芸を演じることに目覚めます。滑稽噺も多く演じていますが、人情噺は他の追随を許さず、「人情噺の福團治」と呼ばれており、同名のドキュメンタリー映画も制作されました。 「入り」「ねずみ穴」「蜆売り」などが十八番ネタとして知られています。いずれの演目にも共通しているのは先人の工夫を継承することに頼るのではなく、独自の視点で人物の心の動きを見つめ直し、人情の機微を描いていることです。それが人情噺の第一人者としての評価にもつながっていると思います。また一度は失った声ですが、現在の福團治の声には名僧や名浪曲師に通ずる鍛え上げた穏やかな響きが感じられます。特にこのCDに収められている「入り」は何度聴いても感銘を覚え心に染み入る名演です。



【桂 春之輔】

男気のある人物として知られています。上方落語協会を脱会していた桂ざこばが協会に復帰したのは春之輔の説得によるものでした。また恐喝未遂を起こした弟弟子が春団治一門から破門され、上方落語協会からも除名された時、落語家として再起させたいと一人で手を差し延べ、付き人として預かって再修業をさせました。また大阪市が文楽協会への補助金削減を表明した時には文楽に関連のある落語を演じ文楽の魅力を伝える「文楽応援の落語会」を立ち上げ、現在も続けています。 このような人情味あふれる人柄は落語「まめだ」によく表れています。いたずらが過ぎて命を落とした子狸を人々が哀れむという民話の香りのする人情噺ですが、春之輔の人となりがにじみ出た語りは情感豊かで、ほろりとさせられます。また「親子茶屋」では師匠三代目春団治ゆずりの明るく華やかで艶のある上方情緒が味わえます。 上方落語協会副会長として、桂文枝会長を支えて協会運営に当たっています。協会直営の落語専門の寄席天満天神繁昌亭が開場十年の節目を迎えるとともに、神戸に新たに寄席が設立される動きも進んでいます。



【六代目 三遊亭 圓楽】

毎年秋に東西の人気落語家が数日にわたって複数の会場で落語会を開く「博多・天神落語まつり」のプロデューサーでもあります。このお祭りは二〇〇六年から始まり、すでに十年がたちました。夢のような落語会が続くので九州の落語ファンだけでなく、全国のファンが注目するイベントになっています。 テレビ番組「笑点」メンバーとして楽太郎時代から全国的な知名度があり、多数のテレビやラジオ番組に出演していますが、本業の落語を常に活動の中心に置き、精力的に独演会を催しています。風邪で熱を出した弟子が「今日は師匠のお宅にうかがえません」と連絡したところ「仕事に穴をあけたら皆様に迷惑をかけてしまうので、私は風邪で休むこともできない」とつぶやいたという逸話があります。 落語の本題に入る前のトークをマクラといいます。世相や政治について笑いをまぶしながら鋭く切り込む圓楽のマクラは明快で説得力があります。その視点は落語の表現にも生かされており、江戸や明治が舞台の噺でも分かりやすく伝えてくれます。そして滑稽噺では痛快な笑いを、人情噺ではしみじみとした感動を与えてくれます。

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