落語落語名人寄席
落語名人寄席
商品名 落語名人寄席
発売日 2007年08月20日
商品コード MITE-1040/41
JANコード 4571117351393
定価(税込) 3,143円
収録時間 DISC-1:72分43秒
DISC-2:69分34秒

艶の一品「文楽」、国宝「小さん」、そして昭和の爆笑王「三平」まで、今甦る芸の神髄!


解説付(演芸評論家 花井伸夫)


※一部、今日では不適切と思われる表現を含む作品もございますが、落語の芸術性に鑑みそのまま収録しています。また、録音状 態により音質が不安定な部分がございますが、御了承下さい。

※モノラル録音

収録内容


    DISC-1
  1. 五人廻し※(25分20秒)

     晩年の名人・志ん生は、あのテカテカと輝く丸い頭を叩くようにしたり、撫でたりしながら「ん......え~ぇ」とか、奇態な言葉を発したりして他にマネの出来ない独特の間だけで、聴衆を引っ張り、一気に大爆笑へと転じたりした。この「五人廻し」は、そこへ至る話術の開花期のものである。滑らかでいながら、言葉そのものが変化と抑揚に富んでおり、吉原の懐かしい一夜の風景が、客の笑顔とともに浮かんでくる。淫に堕さず、玉代を返せという廻し部屋の客たちにも、悪気はない。遊女・喜瀬川がやって来るのを想像して待つ江戸っ子。どこか軍人上がりの口調の客や、訛っているのに江戸ッコだよと見栄を張る男……。四人の客の苦情を聞いて、シャレで応えていく妓夫は、二階の廻し部屋担当の“寝ず番”である。大引け(午前二時) 直前の、遊びを安く上げようという男たちの魂胆の中、妓夫が見つけた喜瀬川は、四人目の杢兵衛の部屋に。どこにも行きたくないと甘えるから、杢兵衛、四人分の玉代を妓夫に渡したら、喜瀬川「もう一円・・・」。なんでだぁ?と問う杢兵衛に、それを渡して「お前さんも四人と一緒に帰っておくれ」。天衣無縫の名人と言われた志ん生が実は、人物の演じ分けや人々の内面の笑いを誘う性善説的描写の天才であったことがうかがえる一席である。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    五代目 古今亭 志ん生

  2. 転宅※(25分44秒)

     北辰一刀流範師七段の腕前だった五代目柳家小さんにふさわしい「転宅」である。少し武張った物言いで始まるマクラ、コソ泥のありようと、粋な黒塀、見越しの松に彩られた妾宅 ......。 基本的には常に寄席の人であり、多くのホール落語会などにも出演したが、これは珍しいスタジオ収録版。客の反応のない中、「女を演じるのは・・・、ちょっと苦手だな」と笑っていた五代目が、時に自ら照れ笑いしながら、囲われるほどのいいオンナと、口をとんがらがしてしゃべる“居直りコソ泥”との会話の妙が何んともおかしい、ほほ笑ましい。旦那を見送っている間に入り込んだコソ泥を、三十路女のしたたかさで丸めこんでいく遣り取りには無駄がない。実は二階に用心棒の剣術の先生が泊まり込んでいると信じ込ませて、旦那に手切れ金を貰うから一緒お前さんと逃げようと切り出され、すっかりその気のコソ泥は、逆に財布の札まで巻き上げられてしまう。明日、三味線の音がしなければ旦那はいない......。粗忽者で間抜けなコソ泥の人の良さが浮き彫りにされていく。滑稽噺の大家としての五代目の芸の太い幹が感じられ、“苦手なオンナ”の描写に真っ向取り組んでいる姿勢が、一層、想像力を刺激してくれる。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    五代目 柳家 小さん

  3. 鶴満寺※(21分39秒)

     名人・文楽と言えば「明烏」「船徳」などが有名だが、実は修練の人で“持ちネタ”は非常に多かった。「鶴満寺」もその一つで元来は上方噺。小町桜と名付けられたしだれ桜で有名な大阪の鶴満寺が舞台だが、文楽は三代目三遊亭円馬から、この演目を譲り受けたとされている。東京では、極めて珍しい噺で、前半、まるでスタジオ録音盤のように文楽の声しか聞こえないのは、観客が、どんな噺かと、身を乗り出すように聞き入っていることを示している。若いころの張った、歯切れのよい高い声に丸みが加わっているのは“名人の老成”を物語っており、一九七一 (昭和四十六)年の第三十八回落語研究会での収録である。きっちと演じられていく桜の花の季節の鶴満寺模様。境内が荒らされぬよう立ち入り禁止となった寺へ、百文貰って若旦那と幇間と芸妓を入れた寺男が酔いつぶれて寝てしまい、帰ってきたご住持(住職)と交わす百人一首を織り込んだサゲへの会話が何とも粋だ。今となっては貴重な東京落語界の財産とも言える録音だ。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    八代目 桂 文楽

    DISC-2
  1. 野晒し(19分42秒)

     二〇〇七 (平成十九年二月二十五日夜の国立名人会(国立演芸場)で「芝浜」を演じ終えたあと、五代目三遊亭円楽は正式な高座からは引退すると発表した。円楽一門会の総帥として、また弟子たちの指導や内々の会では演るかも知れないという含みを持たせたものだったが、前年に人気テレビ番組「笑点」の司会を降りており、メディアの反響は大きかった。それを思うと、この「野晒し」の何と若々しいことよと感慨深い。まだ三十五歳、一九六八( 昭和四十三)年のスタジオ録音盤である。心酔する師匠・六代目三遊亭円生に似ていると指摘されてきた高座のありようから独自の“円楽の語り口”を築き始めたころで、立て板に水の江戸っ子言葉と滑らかな活舌が、何とも心地よい。十人十色、人それぞれの好みを賑やかにマクラに振って、「それでは昨夜の女をごろう(ご覧)じたか?」と長屋の八つぁんの隣家に住むご隠居が語り出した野晒し(しかばね=ドクロ)の一件。これがたまらない美人だったから八つぁん、ご隠居の大切にしている釣り竿を手に、自分もあんな美人のしかばねを釣りたいと釣り場へ。まぁ賑やかなこと! 周囲の当惑、あきれぶりを尻目に、ついには糸まで取っちゃって......。当時の円楽のキャッチフレーズ「星の王子さま」にふさわしい若き品格に満ちた一席と言えようか。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    五代目 三遊亭 圓楽

  2. お婆さん三代姿(21分59秒)

     懐かしい“今輔節”で、言葉が踊るように語られている“お婆さんシリーズ”の代表的作品。新作派に転じ、上州訛りを逆に生かして、お年寄りが着物の襟元に手を置き、ひょいと首の方に持って来るようなしゃべり方のリズムを確立した五代目古今亭今輔が一番上り調子だった六十九歳になる寸前、一九六七 (昭和四十二)年にスタジオ収録されている。「え~、相変わらず、お婆さんの噺で失礼を...」 は、この頃からもう定番だった。まろやかで、抑揚感に満ちた声。家中で一番苦労をなさいますのは奥様と、女性客を持ち上げておいて「お爺さんは黙っといで!」と、強烈なお婆さん声。今の若い者は思い遣りがない......仏壇の扉を開けて、どうぞお爺さん、迎えに来て下さいよは明治生まれのお婆さんの弁。日本で発明したのは人力(車)だけ、何から何まで江戸時代が懐かしいと愚痴の揚句にうたた寝してしまい、さて時代変わって、今度はその愚痴を聞かされた嫁が、今、ちょうどお婆さん。映画だ活動写真だ、キスまで見せて、昔は暗がりで隠れてそっとしたものを、入場料まで取って見せるんだからと、時代の変化を活写していく。まるで高齢化社会の今を先取りしたような一席で、またグーグーとイビキ。「あきれ返ってるお嬢さまがお婆さんになる五十年後にまた改めて私が申し上げます」と“三代”になる。本当に、今、聴きたい、楽しみたい、今輔落語だ。近年では「お婆さん三代記」と表記されることも多い。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    五代目 古今亭 今輔

  3. 犬の目(27分53秒)

     舟木一夫の「高校三年生」が出てくる。「およげ!たいやきくん」の言葉も。場所は上野・本牧亭。一九七五 (昭和五十)年頃、今はない木造の講談定席・本牧亭で行われていた「林家三平独演会」での収録である。“昭和の爆笑王”林家三平は、この頃から新作の香りをちりばめながら、独自の古典落語の領域を再び切り開き、多忙と過労、超人気の中で病魔に倒れ、新宿・末広亭で再起の高座に挑んだときも「源平盛衰記」だった。そして五十六歳での、あまりにも早い他界。この「犬の目」にも類稀なサービス精神が山ほど盛り込まれている。声が小さくなっているところは、マイクから離れて上手や下手のお客めがけて、重点的にギャグを放っている時だ。「こないだ、一席終わったら“待ってました! ”」のマクラなど、今も多くの噺家が用いているクスグリで、言葉の楽しい洪水状況をアクションやゼスチャー入りで作り出していく様子さえ感じ取れる。「患者君、もう一度切るから」「先生! 今度はチャックにしといて下さい」から、荒井 (洗い) シャボン先生が登場する本題へ。取り出した患者の目を干している間には、何と美しい妻・お里と座頭の沢市が主人公の、浪花家(亭) 綾太郎の十八番「壺坂霊験記」まで鳴り物入りで、はめ込まれている。荒唐無稽なおかしさの裏には、笑いへの執念とも言うべきあらゆるジャンルの新しい部分、時代の流れや笑いの感覚への飽くなき追求心があったことを示す“三平落語の昭和の名作”と言っても過言ではない。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    初代 林家 三平



プロフィール


【五代目 古今亭 志ん生 (ここんてい・しんしょう)】

本名・美濃部孝蔵 (みのべ・こうぞう)
一八九〇(明治二十三年六月二十八日、東京・神田亀住町生まれ。元直参旗本の四男坊に生まれるが、既に時代は武士の時代ではなく、転々と丁稚奉公を続けるが長続きせず、十七歳で二代目三遊亭小円朝に入門して二十歳で正式に朝太。以後、円菊で二ツ目、馬太郎、全亭武生、吉原朝馬、隅田川馬石、金原亭馬きんで真打昇進、さらに古今亭志ん馬、講釈師へと転じて小金井芦風(ろふう)。噺家へと再転身して再び志ん馬、馬きん。古今亭馬生となり、柳家東三楼、ぎん馬、 初代甚語楼。三度目の古今亭志ん馬を名乗って一九三四 (昭和九年に七代目金原亭馬生、同三十九年に五代目古今亭志ん生。重複名跡を除いて十六回の噺家名跡の改名は落語史上最多。“なめくじの志ん生"とも呼ばれ、「貧乏自慢」などの著作も。中年期以降に際立った芸風で頭角を現した。十代目金原亭馬生、三代目古今亭志ん朝は実子。 一九七三 (昭和四十八年九月二十一日、八十三歳で没したが、今も名人の呼び声高く、CDなどの売れ行きは群を抜いている。



【五代目 柳家 小さん(やなぎや・こさん)】

本名・小林盛夫 (こばやし・もりお)
一九一五(大正四)年一月二日に長野県で生まれ幼年期に上京。剣道家を目指したが三段の時に体調を悪化させ断念。一九三三年 (昭和八)年、四代目柳家小さんに入門して、その頭の形から栗之助。三十六年、麻布第三連隊に入隊して二・二六事件の時に「知らないうちに銃剣持って反乱軍に「入れられてた」は有名なエピソード。三十九年除隊して高座復帰、小きんで二ツ目。四十七年、九代目柳家小三治で真打。披露興行中の九月三十日に四代目が他界し、八代目桂文楽の預かり弟子となった。同期の三笑亭歌笑、柳亭痴楽とともに早くから活躍し、五十年に五代目小さん。滑稽噺を中心とした柳家の芸を確立。一九七三年、落語協会会長二年目で春秋合わせて二十人の大量真打を誕生させ、落語界の近代化を積極推進。一九九五(平成七)年に落語界初の人間国宝に。二〇〇二年五月十六日の逝去時には孫弟子まで含めて一門は総勢約百人。長男は六代目柳家小さん。長女の二男が柳家花緑。



【八代目 桂 文楽 (かつら・ぶんらく)】

本名・並河益義(なみかわ・ますよし)
一八九二 (明治二十五)年十一月三日、税務吏員だった父の赴任地、青森県五所川原町で生まれ、三年後に一家で東京へ帰任、下谷・根岸で育った。父の死により転々と丁稚奉公。一九〇八年に初 代桂小南に入門して小莚(こえん)。そのまま二ツ目となるが初代小南の帰阪により、名古屋で三遊亭小円都として活動したりした。一九一六 (大正五)年に帰京し翁家さん馬(後の八代目桂文治) 門下となり、さん生。翌年、五代目柳亭左楽に誘われて移籍、同時に翁家馬之助で真打。一九二〇年、五代目文楽が桂やまとに改名し、縁起担ぎで二代飛んで末広がりの八代目桂文楽を襲名。一言一句違わぬ完璧な語り口と艶のある味で名人への道を歩んだ。一九五五(昭和三十)年に落語協会会長、一九六三年にも再び会長となり、一九六五年に会長職を六代目三遊亭円生に禅譲。一九七一年八月三十一日の第四十二回落語研究会(国立小劇場公演)での「大仏餅」口演中に言葉を詰まらせ「もう一度勉強し直して参ります」と高座を下り、以来再び上がることはなかった。一九七一年十二月十二日没。



【五代目 三遊亭 圓楽(さんゆうてい・えんらく)】

本名・吉河寛海(よしかわ・ひろみ)
一九三三 (昭和八年一月三日 (戸籍届け日)実際は前年十二月二十九日、東京都台東区浅草で出生。実家は足立区の助六寺(日照山不退寺易行院)。一九五五年、六代目三遊亭円生に入門して全生。一九五八年、そのままの名で二ッ目。一九六二年五代目三遊亭円楽で真打。現在は円楽一門会の総帥だが一九七八 (昭和五十三)年まで落語協会にあり、古今亭志ん朝、立川談志 五代目春風亭柳朝(或いは柳家小三治、現・橘家円蔵=当時は五代目月の家円鏡、三遊亭円窓) とともに時々の“落語界四天王”と呼ばれた。師・円生が同年に引き起こした落語協会分裂騒動で師に従い落語三遊協会旗揚げに参画。七十九年の円生急逝後、曲折を経て一九八五年に私財六億円を投じて江東区に寄席・若竹を築いたが、一九八九 (平成元)年に閉場。早くから“星の王子さま”の愛称でメディア人気を得、テレビ「笑点」の司会者としても活躍。「浜野矩随」などの人情噺を得意としているが二〇〇七(平成十九年)、表向きの高座からの引退を表明した。一門の指導や弟子の会などへの出演は行う。



【五代目 古今亭 今輔(ここんてい・いますけ)】

本名・鈴木五郎(すずき・ごろう)
一八九八(明治三十一)年六月十二日、群馬県佐波郡境町に生まれ、十五歳で上京し上野松坂屋を振り出しに奉公先を転々。一九一四 (大正三)年初代三遊亭円右に入門して、左京。同門の右女助(後の四代目今輔)門下に転じて、桃助で二ツ目。一九一九年、三代目柳家小さん門下に移籍し、一九二三年に柳家小山三で真打。一九二五年、三代目三遊亭円楽(後の八代目林家正蔵=晩年の彦六)らと協会改革運動を興したが頓挫し、一九二六 (大正十五=昭和元)年に二代目桂小文治門下入りして桂米丸と改名。二十八年に正式に三代目米丸となる。この頃まで古典の修行に専心したが群馬(上州)訛りは、いつまでも抜けず苦悩と貧困の日々であったという。新作落語の巨匠・柳家金語楼からの新作への転向の勧めによって、後年“おばあさん落語の今輔”と称されるほどの独自の道を歩み始め急激に世に受け入れられていった。一九四一年、五代目今輔襲名。この直前まで、上野鈴本演芸場の倉庫番もこなし糊口を凌いだ。一九七四年、二代目落語芸術協会会長。一九七六年十二月十日没。



【初代 林家 三平(はやしや・さんぺい)】

本名・海老名泰一郎 (えびな・たいいちろう)
一九二五 (大正十四年)十一月三十日、七代目林家正蔵 (当時は七代目柳家小三治)の長男として 東京・根岸に生まれる。七代目小三治は、その前に柳家三平を名乗っており、もう一人柳家三平がいたので、泰一郎の長男・林家こぶ平の九代目林家正蔵襲名を機に、これまでの三代目から "初代 林家三平〟と統一している。終戦後、父・七代目正蔵の元で前座見習いを務め、林家三平で正式前座に。一九四九(昭和二十四年)、父の他界に伴い二代目月の家円鏡(後の七代目橘家円歳) 門下に移籍して前座修行を続けた。寄席定席、東宝名人会などでの働きぶりは大変なもので五十一年、そのままの名で二ツ目。五十年代中期から「ドーモスイマセン」などで新作の旗手として人気沸騰。二代目三遊亭歌奴とともに二ツ目ながら寄席定席のトリを務めるという快挙を遂げた。五十八年、そのままの名で真打昇進。一九六二年、創作落語研究会旗揚げに参画。以後、昭和の爆笑王として新境地を築いた。一九八〇年九月二十日の他界後、記念館として、台東区根岸の代々の自宅 (現在は長男の九代目林家正蔵が当主) に"ねぎし三平堂〟が設けられ、九代目正蔵、次男の林家いっ平らの修行の場としても機能している。

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