落語落語名人会
落語名人会
商品名 落語名人会
発売日 2008年03月20日
商品コード MITE-1048/49
JANコード 4571117351607
定価(税込) 3,143円
収録時間 DISC-1:70分37秒
DISC-2:69分08秒

甦る四代目痴楽、五代目今輔、そして初代三平。平成の大看板、米朝、米丸、圓歌の充実期の芸も!!


解説付(演芸評論家 花井伸夫)


※一部、今日では不適切と思われる表現を含む作品もございますが、落語の芸術性に鑑みそのまま収録しています。また、録音状 態により音質が不安定な部分がございますが、御了承下さい。

収録内容


    DISC-1
  1. 一文笛(19分46秒)

     上方落語の戦後復興の祖の一人であるベテラン桂米朝があるとき、しみじみと言ったことがある。「新作もようけ(沢山)作りましたが難しい......。 これならいいかなと思えるのは“一文笛”くらいでっしゃろかな」と。その時々の演者が、その時々、自分の個性と相まって受ける一代限りの新作は、実は洪水のように生まれている。が、他の演者たちにも受け継がれ歴史を生き残り、古典としても通用する新作は極端に少ない。「一文笛」は今や九代目林家正蔵ら東京の落語家も演じるほどに成長した米朝の新作の代表作である。
    米朝は、これを三十代で作り、四十代で磨き上げて完成させ、壮年期で録音に挑んでいる。若々しい張りと艶と格式のある声。物語の時代を「明治の頃の古いお話で」と冒頭でさりげなく振っているのは、スリ(掏摸=隠語でチボ)が、その場の優しさで貧しい男の子に一文笛を掏って懐に忍ばせてやったことから、男の子が泥棒呼ばわりされ、元は武士だった父親が嘆き悲しみ怒って首をはねるとまで言いだす部分があるからである。
    時事的なマクラを振らずに、スッと本題へ入り、名人気質を競うスリの様子が生き生きと描かれる。足を洗えと心替えを勧める兄貴分。その兄貴分の長屋で、スリが良かれと思って子供にしてやったことが徒になる。無実を訴えて井戸に身を投げた男の子の運命は? 秀と呼ばれるスリが再び子供のためにしたことは? 意表を突くサゲ、オチにホッと笑顔が生まれるに違いない。昭和の上方、人情噺の名作である。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    三代目 桂 米朝

  2. 浪曲社長(25分19秒)

    この「浪曲社長」と「授業中(別称・山のあな・・・)」、「月給日」の新作三作は三代目三遊亭圓歌の初期の代表作で“山のあな 三部作”とも呼ばれている。いずれにも吃音者が出てくるのが特徴で、自身が吃音者で、矯正のため浪曲や落語を修行した若き日の体験が生きている。
    原作とも言える体験的漫談調の高座は、一九四八(昭和二十三年)に二代目三遊亭歌奴で二ツ目昇進したころから繰り広げており、その可笑しさが評判となり、研鑽もあって数年後にはそれぞれの演目として完成されていく。これは歌奴のまま真打昇進して超売れっ子となり、落語家としての大きなピークを迎え七十年に三代目圓歌を襲名したころの上野・鈴本での実況録音盤。新作派の旗手として、また人気者として落語界を引っ張ってきた勢いや若々しい、達者な口跡は健在。自負心と自信に満ちた一席となっている。お楽しみどころだ。
    趣味や道楽にもいろいろあると、たっぷりとマクラを振っての導入部。場面の転換、社長と新入社員たちの初めての面接の言葉の遣り取りと“節(ふし)”の妙で爆笑を誘う。圓歌は実際にも昭和浪曲界の大看板・木村若衛の許で修業、木村歌若の名も持っている。浪曲界では、太い、通る声の持ち主を“筒が良い”と言い、もちろん圓歌もそう言われた。身長一メートル五十四センチと小柄な圓歌の、大きな高座ぶりが伝わってくるような歯切れのよい声。テンポよく物語を進めながら、不意に改名前の本名・中沢信夫という名の本格浪曲を演じる新入社員を登場させるサゲ直前の“アンコ”がなんとも楽しい。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    三代目 三遊亭 圓歌(二代目 三遊亭 歌奴)

  3. 源平(25分32秒)

     冒頭から「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり......」と「平家物語」の格調高い名文が語られる。が、そこから噺はあっちへ飛びこっちへ飛ぶ。三平自身が「源平盛衰記」と言っているように、正式には“盛衰記”なのだが、“三平バージョンはギャグ・ダジャレ編”と言える。弾むような声、客席のあちこちへ重点的にサービスする姿勢の変化は、まさにアクション落語で、動きまでが目に浮かぶ語り口である。
    落語の世界で言う“地ばなし”で、本来は講談だが、父である七代目林家正蔵が落語に取り入れ、育て上げたという説もある。三平絶頂期の四十代後半、上野・鈴本演芸場での収録で、若いころ、古典に進むか新作かで悩んだ三平が、実は古典もしっかりと出来ることを爆笑の中で、“なるほど”と感じさせてもくれる。後年、さらに古典の“三平風料理”に情熱を傾けた爆笑王だが、その片鱗はこの演目にも十分にうかがえる。奢る平家は久しからずから平家追討、壇ノ浦の戦い、時子姫のくだりなど本筋があったのかと思い出させてくれるほどの“アンコ”満載の中で、「踊る平家は久しからず」のサゲまで、落語話芸はエンターテイメントを実践している一席と言えようか。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    初代 林家 三平

    DISC-2
  1. もらい風呂(29分13秒)

     甘く、やや鼻にかかった声質。桂米丸のソフトな持ち味は、とりわけ女性に受ける。戦後、新作落語の旗手の一人で、「もらい風呂」などという言葉が生きていた時代の“コミュニケー ションの良さ”を、うらやましく感じるかも知れない。ユニットバスは、昭和の東京オリンピックを機に、日本の建築業界が開発、世界に広まったものだが、これはちょうど“内風呂”が一般的になり始めた頃が舞台。
    米丸は銭湯風景なども織り込んで、艶やかな声で男女の会話の中に、当時の世相までを盛り込んでいく。内風呂の普及に伴って、団地群も一気に増えたが、まだ、時々は“よそのお宅”でお風呂に入れてもらうことがあった時代と、流行の団地群。高度経済成長期の代表的新作の一つである。自分の家の風呂が壊れたから、同じ団地の知り合いの家での“もらい風呂”ということが日常的に起こっていた時代だからこそ成り立つ、人と人とのつながり、サラリーマン社会の生活の当時の新しい生活ぶりを懐かしく感じる向きも多いだろう。同じ外観ばかりだから、そのお宅を間違えてしまうの今の建て売り一戸建てブームの中で、酔っ払って同じ造りの隣の家に帰宅してしまうという笑い話に共通する。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    四代目 桂 米丸

  2. ラブレター(18分13秒)

     ヒットフレーズの一つ“破壊された顔の持ち主”という言葉が名作「痴楽綴方教室」のフレーズとともにマクラで出てくる。四代目柳亭痴楽は、七五調の流れるような美文体、日本語のリズムを落語話芸に取り入れた先駆者でもあった。そこから入る「ラブレター」。誰でも出したり貰ったりしたことがあるだろうラブレターを題材にした青春の一ページには、いつの時代にも共通ものが流れているから、今も新鮮だ。
    マクラと本題に入ってからの痴楽の言葉のトーン、変化にも注目したいところ。美文調の言葉で、客を“つかみ”、本題へ入って、違う笑いをまた振りまき、掘り起こし、再び爆笑の世界へと案内する高座ぶりに、痴楽という当時の超売れっ子の自負と、実は幅広い“芸”の本質がある。届いたラブレターを見たがる友だち、見せた本人でなければ読めない文字、文章 ……。古典落語の世界には文字の読めない長屋の住人たちが今でも住んでいるが、いわば、これはその現代版。パソコン世代の“マル文字、マンガ文字”また“携帯電話用省略文や絵文字”などに戸惑う大人たちに共通するおかしさが溢れている。それでも青春、いや、だからこその青春。友だちに“解読、説明”してやる主人公の照れ臭くも嬉しそうな顔が浮かぶ。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    四代目 柳亭 痴楽

  3. お婆さんの見合い(21分42秒)

     何という時代の先取り、今の高齢化社会を予見していたのではないだろうかと思うほど、今の高齢化社会に共通している。“今輔落語の世界”だろう。会社の上司と部下の関係も現代と変わらない。「毎度毎度お婆さんのお話で……」とマクラで語るほど、今輔のお婆さん落語は一九六〇年前後に大当たりした。それはちょうど高度経済成長が一段落、マイホームブームの真っ最中の頃である。部長も家も立て直し、隠居所を作ったという物語の舞台そのものが時代を反映しているのが新作落語の特徴でもある。
    しわがれた声、胸に開いた手のひらを当ててのお婆さんぶりが浮かぶ。部長の父も部下の母もつれあいに先立たれ、部長の発案で見合いとなるのだが、部下ははっきり言いきれないままに部長宅へ。息子たちの心配をよそに、すっかり意気投合した年寄り二人の会話がおかしい。入れ歯談議は抱腹絶倒もので、さて、二人は結ばれるのか?世界一の長寿国ニッポンで、こんな平和なお年寄りがいたなんて。今じゃ、高齢者は介護保険も医療費も税金もしっかり取られ、“ホーム”全盛。病院の待合室も大変なん混雑ぶり。今輔落語の世界はこうした時代だからこそ再評価されるべきだろう。はからずも過去から現代を照射するものとなっている一席だ。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    五代目 古今亭 今輔



プロフィール


【三代目 桂 米朝(かつら・べいちょう】

本名・中川清(なかがわ・きよし)
一九二五 (大正十四年十一月六日、満州・大連生まれ。家族とともに帰国し、以後、出身地は兵庫県姫路市に統一している。一九四三 (昭和十八年)、大東文化大学在学中に演芸評論家で作家の正岡容門下となり、それが縁で四十六年九月に四代目桂米團治に入門。同十月に三代目桂米朝の名跡を授けられる。初高座は「高津の富」。戦後、数人にまで激減した上方落語家と、絶滅寸前だった上方落語を、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝、三代目桂春團治らとともに立て直してきた逸話はあまりにも有名。五代目柳家小さん亡き後唯一の落語界の人間国宝。芸は東の故六代目三遊亭圓生と好対象を成す博識洒脱な百科全書派で持ちネタ、新作とも数量、充実は群を抜いている。ひ孫弟子まで含めると一門は六十人以上。息子の明(あきら。一九五八年生まれ)が小米朝として活躍、二〇〇八 (平成二十)年、父の師匠だった米團治の五代目を襲名する。



【三代目 三遊亭 圓歌(さんゆうていえんか)=二代目歌奴(うたやっこ)】

本名・中沢円法(なかざわ・えんぽう)=一九八五 (昭和六十年に日蓮宗で得度し、その後に本名を信夫(のぶお) から改名。
一九三二 (昭和七年)一月十日生まれ。本人いわく実際には一九二九(昭和四年生まれ。「戦時中に役所の戸籍が焼失し、改めて届け出たお婆ちゃんが間違えた。漫画家の滝田ゆうと同級生だったから」というのが理由で、最高顧問を務める落語協会では二十九年生まれで通っている。東京・向島出身。岩倉鉄道学校卒業後、学徒動員で国鉄(現JR) 新大久保駅の駅務員として勤めるが、終戦直後の一九四五 (昭和二十年九月に二代目三遊亭圓歌に入門、前座名は歌治。少年時に吃音で、その矯正も入門志願の理由の一つだった。浪曲師として木村若衛の元での修行も体験、木村歌若の名も得た。四十八年、二代目歌奴で二ツ目。直後から新作で頭角を現し始め、やがて「授業中」や「浪曲社長」として結実する前の漫談調の高座で注目を集めた。五十八年、そのままの名で真打昇進。戦後入門の第一号真打でもある。七十年、三代目圓歌を襲名。一九九六(平成八年)から二〇〇六年まで落語協会会長。弟子に、鹿児島県出身の爆笑新作派で、とりわけ九州ではスーパースター並みの人気を誇る歌之介らがいる。



【初代 林家三平(はやしやさんぺい】

本名・海老名泰一郎(えびなやすいちろう)
一九二五(大正十四年十一月三十日、七代目林家正蔵(当時は七代目柳家小三治)の長男として東京・台東区根岸に生まれる。七代目小三治はその前に柳家三平を名乗っており、もう一人柳家三平がいたので、泰一郎の長男・林家こぶ平の九代林家正蔵(海老名家では"目"をつけない) 襲名を機に、これまでの三代目から、初代林家三平:と代号、呼称を統一している。二〇〇九(平成二十一)年に次男のいっ平が二代林家三平を襲名することもあって統一は後世の落語界のためにもいいことだろう。泰一郎の初代は、終戦後、当時の七代目正蔵の元で主に東宝名人会で前座見習いとして働き、一九四九(昭和二十四)に父が他界したのに伴って二 代目橘家圓蔵門下に移籍、正式に落語協会で前座修行を続けた。名人上手たちが感心するほどの働き者で、五十一年、そのままの名で二ツ目に昇進。五十年代中頃から「ドーモスイマセン」などのヒットフレーズなどを多用した新作の旗手として時代の寵児に。二代目三遊亭歌奴(現・三代目圓歌)とともに二ツ目ながらトリを務めるという快挙を成した。五十八年、そのままの名で真打。一九六二 (昭和三十七)年の創作落語研究会旗揚げに参画。以後、昭和の爆笑王の道をひた走り、一九八〇年九月二十日に早世した。



【四代目 桂 米丸(かつら・よねまる】

本名・須川勇(すがわ・いさむ)
一九二五 (大正十四年)年四月六日生まれ、神奈川県横浜市出身。都立化学工業専門学校 (現・高校)を卒業して、四十六(昭和二十一)年に五代目古今亭今輔に入門。前座仕事なしで翌四十七年に今児で二ツ目。四十九年に四代目桂米丸で真打昇進しているのだから、いかに若き日の米丸の精進、活躍が目覚ましかったがうかがえるだろう。一九七六 (昭和五十一)年から九十八(平成十)年までの長きにわたって落語芸術協会の会長を務めたが、「コンピューター時代になって、パソコンなどの発展についていけない」と、十代目桂文治(二〇〇四年一月三十一日、八十歳で他界)に会長職を禅譲した。会長在任中には上野・鈴本からの出演撤退などが起こったが、一方で、マンションの永谷商事所有の不動産を上野広小路亭、お江戸日本橋亭などとして“寄席化”させることで出演の場の減少を食い止めるなど新たな場の開拓確保に貢献した。芸の上では戦後新作落語の牽引車的存在で、「動物園」「山手線風景」などには奥様方の会話と世相、流行の戯画化が見事なまでに話芸として高められている。



【四代目 柳亭 痴楽(りゅうてい・ちらく)】

本名・藤田重雄(ふじた・しげお)
一九二一(大正十)年五月三十日生まれ、富山県富山市出身。一九三九(昭和十四)年に豊竹歳太夫に入門して義太夫修行。同年七月に七代目春風亭柳枝に入門、前座名は笑枝。四十一年四月、七代目柳枝他界に伴い、当時の落語界で最高の力を持っていた五代目柳亭左楽門下に移籍して二ツ目、四代目柳亭痴楽を襲名した。四十五年九月、終戦後初の真打として昇進。親しかった「歌笑純情詩集」などで笑いの水爆とまで言われた爆笑派の三代目三遊亭歌笑が五十年に銀座松坂屋前の路上で米軍のジープにはねられて急逝。独特の美文、七五調の新作世界を継ぐ形で「痴楽綴方教室」「恋の山手線」などを次々に生み出し、爆笑派の巨匠となった。個性的な風貌。「破壊された顔の持主」「柳亭痴楽はいい男・・・・・・」などのヒットフレーズを知らない高齢者はいない。一九七二(昭和四十七)年に落語芸術協会理事長となったが、翌年十月、二代目桂枝雀らの襲名披露を祝って大阪・道頓堀角座に客演中に脳卒中で倒れ、以後約二十年闘病、リハビリの日々。弟子たちの尽力で一九九三(平成五)年、一瞬だけ、新宿・末広亭の高座に復帰、同年十二月一日に眠るように他界した。



【五代目 古今亭 今輔 (ここんてい・いますけ)】

本名・鈴木五郎(すずき・ごろう)
二〇〇八(平成二十)年五月、六代目古今亭今輔が誕生する。古今亭寿輔門下の錦之輔が真打昇進と同時に六代目今輔を襲名するのである。五代目今輔が他界したのは一九七六(昭和五十一)年、新しい今輔は七十年生れだから、実際の五代目のことは知らない。共通しているのは新作に燃える存在ということ、記念の年に復刻発売される五代目のCDというのもう れしい縁だろう。五代目は一八九八(明治三十一)年生まれ、群馬県佐波郡境町出身。十五歳で上京して丁稚奉公先を転々。一九一四(大正三)年に初代三遊亭円右に入門して左京となって以後も、二代目桂小文治門下に転じて三代目桂米丸を名乗るなど上州訛りもあって苦労時代が長かったが、巨匠・柳家金語楼から新作への転向を進められて大看板への道を歩むことになる。一九四一(昭和十六)年、五代目今輔を襲名。戦後のラジオ時代に乗って十八番のお婆さん落語が世の中に広まっていったのは五十歳前後からのことだった。七十四年から他界する七十六年十二月十日まで二代目落語芸術協会会長。

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