落語落語特選集
落語特選集
商品名 落語特選集
発売日 2009年03月20日
商品コード MITE-1053/54
JANコード 4571117351881
定価(税込) 3,143円
収録時間 DISC-1:71分58秒
DISC-2:65分42秒

甦る昭和!落語界を彩る話芸ここに!!落語家にはたまらない小さんの「真田小僧」、貴重な口演志ん生の「祇園祭」他を収録。


解説付(演芸評論家 花井伸夫)


※一部、今日では不適切と思われる表現を含む作品もございますが、落語の芸術性に鑑みそのまま収録しています。また、録音状 態により音質が不安定な部分がございますが、御了承下さい。

★モノラル録音

収録内容


    DISC-1
  1. 授業中(22分45秒)

     新作落語は、その大半が演者とともに冥土名人会へと旅立ってしまうほど果敢ないが、それだけに時代状況を最も反映しており、演者は生きている限り、時代に合わせて刻々と進化発展させていく。三代目三遊亭圓歌の「授業中」は、今では滅多に演じられないが、そのエ ッセンスは、例えば代表作「中沢家の人々」の今の演じ方の中にチラリとはめ込まれていたりするのである。一九六七 (昭和四十二)年七月のスタジオ録音盤だが、中で「もう二十三年もやってるんだよ」と言っていることから、このネタを、戦後すぐに二代目圓歌に入門したころから温め育ててきたことが分かる。一年計算が合わないのは、恐らく数え年で言っているからで、このときはまだ人気絶頂の“二代目三遊亭歌奴”だった。戦前の授業風景との比較対照の中で、すぐに戦後復興期の活況の中での授業風景へと移る。義務教育の前に、幼稚園へ通うことがもう当たり前になっていた時代だ。極端に地方訛りの激しい新任の先生と生徒たちとの交歓風景はバラエティーに富んで出色の面白さ。これを楽しんで、現在の落 語協会最高顧問・圓歌の高座に接すれば、その声質の今も変わらぬ若さに驚くことだろう。そして同時に初代林家三平らと競うようにして、まずラジオで楽しまれテレビ時代の到来とともに、最も早く爆笑落語家として全国的人気を得た売れっ子が、若いころから達者な活舌、落ち着き、堂々とした高座ぶりであったことにも思いは至る。三代目は、少年のころ吃音であったが、それを矯正するために入った落語の道で天才的なまでに変身、開花した落語家なのである。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    三代目 三遊亭 圓歌

  2. 祇園祭(27分46秒)★

    「江戸っ子は口先ばかりで腸(はらわた) はなし........」と、五代目古今亭志ん生は、スッとマクラに入っていく。天衣無縫の芸と言われ、名人と評されて、今もなお多くの落語ファンがレコードで、CDでその芸を楽しんでいるが、この「祇園祭」は珍しく最初から、きちっとした枠組みの中で語られている。何故か? それはこの噺には八代目桂文治《一九八三(明 治十六)年一月二十一日~一九五五 (昭和三十)年五月二十日》というお手本があるからである。八代目文治他界後に、この噺の面白さ、楽しさを最も体現してきたのが五代目志ん生なのだが、実は口演回数は驚くほど少なく、そんなこともあってテイチクからのたっての依頼で五代目志ん生が収録に臨んだのだった。時は一九七六 (昭和五十一)年の暮れ。長編を志ん生は、見事なまでに刈り込み、再構築して、一等独自性に満ちた「祇園祭」にしている。演じるたびに中身が違うとまで言われた自在な演じ方の志ん生が、実は、こんなにきっちりとした落語を演じていることに大方は驚かれることだろう。「三人旅」のような第一段落、京言葉と江戸弁との対比を軸にした湯(京都では風呂)屋探しの第二段落、そして東と西の自慢合戦の“祇園祭”という第三段落。楽しんで、実は名人・志ん生は、こうした楷書体の芸を背景に、やがて「えぇ~」とか「......はぁ」とか奇妙奇天烈な言葉を挟んだりして、その間(ま)や一瞬の言葉で大爆笑を生む演者としての快感を覚え、ふんわりとした草書体の話芸へと至ったことに思いを馳せると、芸の懐を感じる一席だ。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    五代目 古今亭 志ん生

  3. はてなの茶碗(21分27秒)

     二十一世紀に入った今も、三代目桂米朝は、この「はてなの茶碗」を得意演目の一つとして演じ続けている。そればかりか、この噺は一九六七(昭和四十二)年夏の収録だが、最近の「はてなの茶碗」と比べてみても、その声、演じ方までがほとんど同じであることに驚嘆することだろう。分かりやすい大阪弁は、ときに標準語と間違えそうなほどなのも、少しも変わっていない。三代目米朝の芸が“上方落語の教科書”と言われる所以である。上方落語は、実は戦中に絶滅寸前の状態で、戦後すぐには上方落語家自体が十人にも達しないほど窮地に陥っていた。その状況の打破のために、三代目米朝は文字通り全国落語行脚を続けたのだった。その時、自然に身についていったのが、分かりやすい標準語のような大阪弁だったのである。戦後すぐの交通事情や、テレビもない時代であったことを思えば、それがいかに大変なことであったか分かる。「はてなの茶碗」では、大変な目利きと評判の京都の茶道具屋の 主人・金兵衛(通称・茶金)の京都弁と、その金兵衛が“はてな?”と首を傾げたのだから、これは大変な値打ちものと踏んだ男の大阪弁とのやりとりの妙。何の変哲もない湯呑茶碗が、どんな経緯で何千両もの珍品に育っていくかなどをじっくりと楽しみたい一席だ。三代目米朝は一方で新作活動も続けてきて、「一文笛」はその代表作。米朝の持ちネタは驚くほど多く、多様なジャンルの落語を自家薬籠のものとしているが、昨(平成二十)年、米朝の師匠だった桂米團治の五代目を襲名、復活させた長男・小米朝いや五代目桂米團治がその芸を踏襲、発展させていくことになるだろう。目出度い年の翌年の三代目米朝の代表的演目の復刻である。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    三代目 桂 米朝

    DISC-2
  1. 真田小僧(22分52秒)★

     落語通にはたまらない、貴重な五代目柳家小さんの「真田小僧」と言えるだろう。まず第一に小さんはあまりこの演目を高座にかけなかったこと、第二には愛弟子で、後年袂を別った立川談志のことをマクラに振っていることが挙げられる。聞くだけで、演じた時期や年齢が分かる類の珍しいものだ。「大変お待たせ致しました・・・」といった言葉で小さんは登場している。それだけでドッと笑いが起こっている。談志の楽屋入りが大幅に遅れて、これ以上、お客さまを待たせてはおけないという形で師匠の小さんが先に上がったというわけだ。型破りの天才的弟子の素行を少し披露して、本題に入っていく様子は、まるで「真田小僧」の父と子の関係のようで、巧まずして出色のマクラになっている。これは、小さんが「破門「した」と言い、談志が「オレが出てやった」と言う立川流一門会旗揚げ以前のもの、もっと言えば落語協会分裂騒動より前の高座だということがうかがえる一席で、実際、録音は第三十四回落語研究会公演《一九七〇 (昭和四十五)年十二月十五日》で行われた。あまり演じなかった噺だが、小さんは、こまっしゃくれた子どもが、いかに父親から小銭を巻き上げるかから、真田六連銭の由来まで、無駄を省いて楽しく、大らかに演じている。息子の現六代目柳家小さんには小さい時から厳しかったが、孫の柳家花緑は目の中に入れても痛くないほど可愛がった五代目小さんの人柄と芸の大きさが偲ばれ、落語史の上でも時代を彷彿とさせる興味深い復刻版である。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    五代目 柳家 小さん

  2. たがや(19分20秒)★

     何と若々しい声の五代目三遊亭圓楽だろう。一九六八(昭和四十三)年春、三十五歳の時の スタジオ録音盤である。その二年前には「笑点」(日本テレビ系列)の放送が始まり、全国的に人気が高まる中での一席だから、立て板に水の口跡、江戸言葉の躍動感に満ちている。あまり知られていないことだが、圓楽は五十代ではもう、総義歯だった。義歯が歯肉の神経に当たり、うまくしゃべれず、何度も作り替え、その数は二十を下らない。そのため細かな喜怒哀楽などの描写を自分で納得できずに、五十前後の時には、講演を中心に活動して落語から遠去かっていたことさえあるほどだった。五代目圓楽はこの活舌を生かしつつ、やがて「浜野矩随」のような重厚な人情噺を語り込んで掌中の珠としていくのだが、ここにはその原点とも言うべき芸が詰まっている。火事と喧嘩は江戸の華、圓楽もまた下町・浅草で生まれている。大川(隅田川)にかかった両国橋、その賑わい。親孝行のために混雑をかき分けて家路を急ぐ職人、肩の道具箱にかけられていた“たが”が外れて、こともあろうに馬上の侍の笠に...。古今亭志ん朝、立川談志、五代目春風亭柳朝(柳朝没後は月の家圓鏡=現八代目橘家圓蔵、柳家小三治、三遊亭圓窓のときも)とともに落語界四天王と呼ばれ、“自ら”星の王子さまを名乗ってメディア人気と芸の実力の双方に磨きを掛け続けた若き日の圓楽の名演が、愛弟子・三遊亭楽太郎の六代目圓楽襲名を来年に控えたこの時期に甦ることがうれしい。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    五代目 三遊亭 圓

  3. 湯屋番(23分30秒)

     今春(二〇〇九年)、次男のいっ平が二代目林家三平を襲名する。その記念の年の復刻版が、この「湯屋番」。いっ平がまだ六歳のとき、一九七六(昭和五十一)年春の上野・本牧亭での独演会での収録だ。客席のファンから、たばこを手渡しされたり、人気絶頂期の初代三平には熱心な追っかけが大勢いたことが分かるマクラ。「またまた・・・」と言っているのは、この演目がこの夜の二席目の噺であることを示している。本牧亭は二百人も入れば超満員の、下足番のおじさんもいた畳の講談席だったが、落語会にもよく使われていた。席亭は、上野・鈴本演芸場と親戚関係にあり、実はこちらの方が古い席であることは存外知られていない。飲む、打つ、買うの三道楽から振っていく初代が、大変なアクション落語家であったことが、言葉の躍動感や、客に話しかける言葉の数々からも絵に浮かぶように分かる導入部。新作爆笑派として爆笑王の異名さえ持つ初代は、実は暇さえあれば古典の修業もしていて、これもその一つ。やがて型破りな爆笑編「源平盛衰記」などへとつながっていくのだが、ここでは驚くほど原作に忠実な演じ方をしているのが特徴。自分で、途中で演目名を挟んだりしているところに類稀なサービス精神が覗く。感服してしまうほど、丁寧な演じ方。落語にはよく、独りで誰かとのやり取りを想像して演じる場面があるが、道楽ゆえに勘当された若旦那が、お働きなさいと言われて行った銭湯(湯屋)の番台に上がって女風呂のいもしない小粋な客との成り行きを勝手に想像するこれは、その代表的作品である。

    【解説】演芸評論家:花井伸夫

    初代 林家 三平



プロフィール


【三代目 三遊亭 圓歌(さんゆうてい・えんか)=二代目 歌奴(うたやっこ)】

本名・中沢円法(なかざわ・えんぽう)
本来は“信夫”だったが、日蓮宗の得度名円法を戸籍上も本名に変えている。一九三二 (昭和七)年一月十日、東京・向島生まれ。これは戦時役場が焼失、戦後に届け出たときにお婆ちゃん"が記憶間違いしたもので、実際には漫画家・滝田ゆうと同級生だったので一九二九(昭和四)年生まれと、本人が落語協会に“申告”、仲間内にはこちらの年齢で通っている。岩倉鉄道学校(現・岩倉高校)に入学後、学徒動員で山手線新大久保駅員となる。一九四五(昭和二十)年に吃音矯正を目的に二代目三遊亭圓歌に入門して歌治、一九四八(昭和二十三)年、師匠の前名歌奴で二ツ目。直後から数年後に「授業中」などの爆笑新作落語として完成する新作群のエッセンス落語で人気者となり、初代林家三平とともにテレビ創世記の寵児に。木村若衛の弟子として浪曲も修行し、“木村歌若”の浪曲師名も持っている。これが“節(浪曲)入り”「浪曲社長」の確立につながった。一九五八(昭和三十三)年4月、歌奴のままで真打昇進。人気はさらに上がり、一九七〇(昭和四十五)年十月、三代目圓歌を襲名した。高齢化社会を先取りしたような「中沢家の人々」などは、一種、ノンフィクション性を帯びた爆笑新作の傑作として名高く、今も、少しずつ時代に合わせて改作されて、永遠の新作と化している。一方で古典修業も怠りなく、筒(=のど)の良さもあって今も若々しい「坊主の遊び」などを展開する。一九九六(平成八)年に五代目 柳家小さんの後を受けて八代目落語協会会長、二〇〇六(平成十八)年から最高顧問。



【五代目 古今亭 志ん生 (ここんてい・しんしょう)】

本名・美濃部孝蔵(みのべ・こうぞう)
一八九〇(明治二十三)年六月五日~一九七三(昭和四十八)年九月二十一日。神田亀住町の生まれで、直参旗本の出を誇りとしたが、酔生夢死、酒芸をこよなく愛し、このため生活は長いこと貧しく、長屋住まいを転々、俗に《なめくじの志ん生》と呼ばれた。一九一〇(明治四十三)年頃、二代目三遊亭小圓朝(四代目橘家圓喬という説もある)に入門して三遊亭朝太。三遊亭圓菊で二ツ目昇進して以後、古今亭馬太郎、全亭武生、吉原朝馬、隅田川馬石、一九二一(大正十)年に六代目馬生門下から今原亭馬きん真打、古今亭志ん馬、講釈師に転じて小金井芦風、同二六(大正十五)年に噺家に戻って古今亭馬生、さらに初代柳家三語楼門下に移籍して柳家東三楼、柳家ぎん馬、柳家甚語楼、再び古今亭志ん馬と復名して、一九三四(昭和九)年に七代目金原亭馬生、一九三九(昭和十四)年に五代目古今亭志ん生と十六回もの改名と引っ越しを繰り返したのは、芸の心機一転と借金の取り立てからの回避であったという。しかしその芸は天衣無縫人情の機微に富み、まさに名人芸への道を進んだ。八代目桂文楽と並び称される不滅の金看板である。一九五七(昭和三十二)年に落語協会会長。同六一年師走十五日の読売巨人軍優勝祝賀会でのご祝儀芸の際に脳溢血で倒れ、一時復帰したが、長いリハビリ、療養生活は一九七三(昭和四十八)年晩夏までとなった。戒名は松風院孝誉彩雲居士。長男はいぶし銀の魅力で知られた十代目金原亭馬生、次男は平成の名人・三代目古今亭志ん朝。



【三代目 桂 米朝(かつら・べいちょう)】

本名・中川清(なかがわ・きよし)
一九二五 (大正十四)年十一月六日、旧満州大連市に生まれたが、幼年時に帰国して育った兵庫県姫路市出身としている。一九四三(昭和十八)年、大東文化大学在学中に作家で寄席文化研究家の正岡容(まさおか・いるる)に師事。正岡の勧めもあって落語家を目指し、戦後の一九四七(昭和二十二)年に四代目桂米團治に入門して三代桂米朝。大阪・戎橋松竹での初高座は「高津の富」だった。人数的にも十人に満たず衰退の極みにあった上方落語界を六代目笑福亭松鶴、三代目桂小文枝(後に五代目桂文枝)、三代目桂春団治とともに東奔西走して立て直し、今日の隆盛に導いたというエピソードはあまりにも有名。この四人を《上方落語四天王》と呼んだ。東の六代目三遊亭圓生と並び称される百科全書派で博識多才、古典落語「百年目」「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」などを掘り起こし、一方ですでに古典の範疇に入ると言ってもいい「一文笛」などを創作し続けてきた。「一文笛」は東京落語界でも九代目林家正蔵、春風亭小朝らが好んで演じてもいる東西普及型の新作の代表作でもある。弟子はひ孫弟子まで含めて五十人を超える。二〇〇八(平成二十)年、長男の小米朝(本名・中川明=なかがわ・あきら)が、米朝の師である米團治の五代目を襲名、全国で襲名披露興行を行った。また一九九六(平成八)年には東の五代目柳家小さんに続いて落語界で二人目の人間国宝に認定されている。



【五代目 柳家 小さん】

本名・小林盛夫(こばやし・もりお)
一九一五(大正四)年一月二日~二〇〇二 (平成十四) 年五月十六日。長野県出身。少年時代から剣道家を目指すが、中耳炎で断念。上京して落語家を目指し、一九三三(昭和八)年六月、四代目小さんに入門して、その坊主頭から栗之助。一九三六年には麻布第三連隊に入隊、知らずに二・二六事件の反乱軍の一員となっていた。一九三九年、小きんで二ツ目。一九四三年に応召、南方派兵となり、一九四六年に復員。一九四七年、九代目小三治で真打昇進。一九五〇年五月、五代目小さんを襲名。柳家の芸の中核をなす滑稽噺を軸に芸格、幅を広げ六代目三遊亭圓生とともに東京落語界の頂点に。一方で剣道を愛し、東京目白の自宅内に道場も建てて修業、北辰一刀流範士七段。一九九五(平成七)年には落語界初の人間国宝に認定された。弟子は現代落語界の芸の中核・小三治、現落語協会会長・鈴々舎馬風らを筆頭にひ孫弟子まで含めて総勢100人を超える。花緑は孫、もう一人の孫で花緑の兄・十市はモーリス・ベジャールのもとで活躍した世界的バレエダンサー、現在は俳優としても注目されている。六代目小さんは長男。無駄を省く、芸は人なりが持論で、普段は寡黙だったが、温厚でとりわけ子供たちにはダッコしたりアババババーまでするサービスぶり。筆者の子供たちも可愛がってもらった。一九七八年の落語協会分裂騒動以後、東京落語界が一応のまとまりを見せて、今日の発展を遂げているのは五代目小さんの功績である。



【五代目 三遊亭 圓楽(さんゆうてい・えんらく)】

本名・吉河寛海(よしかわ・ひろうみ)
一九三三 (昭和八)年一月三日生まれ、東京・浅草出身。実際の出生日は前年十二月二十九日で、戸籍は届け出の日となっている。実家は戦時下の寺社疎開で移転した足立区の日照山不退寺易行院=通称・助六寺。六代目三遊亭圓生の筆頭弟子で、一九七八(昭和五十三)年春に、師が起こした落語協会分裂騒動の中で脱会、一年後の圓生急逝後も復帰せず、独自に現“圓楽一門会”を興して総帥となる。一時は寄席「若竹」を建設して弟子育成を目指したが、「失敗だった。野に居て咲け」と自ら閉場させたこともある有言実行の人。若いころは故古今亭志ん朝、立川談志、故五代目春風亭柳朝(あるいは月の家圓鏡=現・橘家圓蔵、柳家小三治、三遊亭圓窓)とともに落語界四天王と呼ばれ称されたほどの人気実力派。星の王子様などのキャッチフレーズを用いたハシリでもある。日本テレビ系列の人気長寿番組「笑点」の司会者としても活躍した。語り込む噺を得意とするが、中でも「浜野矩随」などの人情噺が光る。二十一世紀に入って人工透析を始め、現在は週三回。口跡が細かい描写に向かなくなって引退を表明。さらに二〇〇九年には、一〇年春に六代目圓楽を愛弟子・楽太郎に襲名させると発表した。楽太郎は「五代目と六代目が同時期に存在してもいい」と高座に引っ張り出す考えで、それが師である当代圓楽の長命につながる親孝行だとしている。



【初代 林家 三平(はやしや・さんぺい)】

本名・海老名泰一郎(えびな・やすいちろう)
一九二五 (大正十四)年十一月三十日~一九八〇(昭和五十五)年九月二十日。七代目柳家小三治(後の七代目林家正蔵)の長男として東京・根岸に生まれる。七代目小三治の前名は“柳家”三平で、他にも三平を名乗った噺家がおり、三平としては三代目だが、前座名・三平のまま大スターになったのは海老名の三平で、他界時にその墓石に“初代”と刻み、代号を統一した。海老名家の自負である。この音源が復活する二〇〇九年春、次男・いっ平が二代目林家三平を襲名披露する。長男は前名・こぶ平、現・九代目林家正蔵。初代は戦後に父のもとで前座見習いを始め、一九四九(昭和二十四)年、父の他界に伴い二代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)門下に移籍した。落語界群雄割拠と離合集散の影響で独立系の東宝名人会で前座修業を開始して落語協会へと移行した形だが、目から鼻へ抜ける前座ぶりは伝説的。五十一年、三平のまま二ツ目。直後から「ド~モスイマセン」などのヒットフレーズを散りばめた新作で売れ出し、二代目三遊亭歌奴(現・三遊亭圓歌)とともに人気を二分。ともに二ツ目ながら寄席定席のトリを任せられたほどだった。五十八年、そのままの名で真打。新作で一世を風靡し、型破りの古典「源平盛衰記」などが歴史に残る。八〇年の他界時から数年、時代が平成に移った時から《昭和の爆笑王》と呼ばれている。

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